先週から我が家の扉に張られているデッサン |
前回は「フランス人は気分が高揚するとマルセイエーズを歌う人々」と結論したが、「気分を高揚すべき折にマルセイエーズを歌いだす人々」とすればより容易に納得してもらえただろう。つまりマルセイエーズはニュージーランド・ラグビーチームの「ハカ」:「相手に負けないぞ」と自らを鼓舞するもの。この方が歴史にも合っているし、日曜日にレパブリック広場に集まった群衆も、私は追悼の場に相応しくないと思ったのだが、彼らにしたら「テロなんて怖くないぞ!」と自らの勇気を奮い立たせた。
告白すると私も何故かマルセイエーズを聞くと気分が高揚する。 私はズドンと一発は怖くないが、拷問されたらどうしようと思う(これはほぼ子供の時からの悪夢)。ひょっとしたら失神するまでマルセイエーズを歌い続けたら耐えられるかもしれない(夢の中でも)。
と少し今日はマルセイエーズと和解しました。
ところで昨日の発刊されたCHの漫画、関口涼子さんの模範的解釈を教えてもらった:
「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題
http://synodos.jp/international/12340/2
すばらしい! でも翻訳の要らない仏人のどれだけの人が、仏語圏イスラム教徒の何%が関口さんのような解釈ができたか? (実際気になって Tout est pardoné でひっかかってくる仏語ニュースサイトを幾つか見たが「誰が誰を赦したか?」を彼女の様に書いている記事には行き着かなかった。見たら教えて下さい)
私は昨日 pardonnerを「許す」と訳してしまったが、これは単純に漢字能力のなさで、、、お許しを。
しかしなかなか本論の「言論の自由」に到達しない、、、 これは関口さんのような方にまかせ、わざわざ僕が書かなくてもいいかという気もして来た。
0 件のコメント:
コメントを投稿