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2025年6月16日月曜日

修道院の個展での仲野麻紀さんの即興演奏

(La vidéo de l'intervention musicale de Maki Nakano ci-dessous)

 

昨日に続き修道院の展覧会の最終章:

無事に開催できた5月22日の展覧会場での仲野麻紀さんが即興演奏

麻紀さんに初めて出会ったのは何十年(?)も前のこと、彼女がオペラ座界隈、日本人シェフの影山さんが作る一味違う韓国料理の店「キムチ」でアルバイトをしていた時。いつもサービスをしているVさんが骨折をして急にピンチヒッターとして登板した。「へーえサックスね〜」てな程度の会話だったのだが一度聞きに行って見たら古い渋みある光沢のサックスから時の重みを感じさせるような深みある音が奏でられて驚いたのだったが、最近は昔より軽やかな飛翔感が出てきたような気がする。 
彼女は北アフリカ、ブラックアフリカのミュージシャンとの共演も多く、それどころかアフリカからミュージシャンを日本に連れていって公演を企画したりするというヴァイタリティの持ち主。音楽のみならず旅行をしては各地の料理を学び精通し、音楽、料理。社会問題をおり込んだ本も書くし、俳句も作るし、かつ最近はネットラジオも放送する大変な才女。
 
 
かつブルターニュに住んでいるしで、いくら彼女が好んでいろいろな場所・状況で即興しているにせよおいそれと「会場に来てボランティア演奏して」とは言い出しにくいのだが、彼女から逆に提案をしてくれてとても嬉しかった! それが前々回書いた「許可問題」でしょ、はらはらさせられましたよ。
 

ところでその最初の出会いを作った骨折したVさんは今回初めて私の作品を見に来てくれてたのだが、いつも焼肉を食べながら酔っ払ってはケタケタ笑っている私しか知らないから作品が意外だったらしく「本当にあんたが描いたのか?」と何度も尋ねられておかしかった。
そういう印象を持ったのはVさんだけではないだろうから、それだけでもちゃんとした展覧会やった甲斐がありました😅
 
ははは、これが今回の展覧会の結論です
 
 


2025年3月2日日曜日

命の次に大切なものをなくした〜

日頃「命の次に大切なもの」と言っている「滞在許可証」、こともあろうにこれを落とした!*

携帯にモバイル搭乗券なるものがあり、家からパリの空港まで荷物を運んでくれるANA+クロネコの「手ぶらサービス」なるものを利用しているのでゆっくり羽田に到着、ANAの機械でモバイル搭乗券を読ませたら「存在しません」というような答えが出てきて、変だなーとパスポートを引っ張り出しスキャン。でも答えは同じ。さっぱりわからんから近くにいた係員に尋ねたら、ははは、そこは国内線カウンターだった! 
国際線は2階でそこで同じことを機械相手にしようとしたらモバイル搭乗券が入ったメールが見当たらない。どうも携帯の変なところを触ってしまったようだ。pcには入っているが、、、で紙の搭乗券を出してもらうことにした時には場内で「パリ行き最後の搭乗受付です」なんてアナウンスがあって、今までの余裕はどこぞに消え、慌てて「人のいるカウンター」へ。まあ私にはこの方がよっぽど楽だ。
 
荷物検査などを通過しゲートに行きつつふと気がついたのはいつもパスポート入れに一緒に入っている滞在許可証がない。服のポケットにもナップサックのポケットにもない。国内線でも国際線でも機械に読み込ませようと思った時は絶対にあった。そのあとパスポートを出したのは紙の搭乗券をプリントしてくれたカウンター。その時もあった。
 
情報センターに行って探してもらったが落とし物にあがってきていない。青ざめてしまったがともかくはパリ空港までは行くしかないよな〜、命はあるのだから。
 
フライトのゲートの係員にまたこれこれしかじか、、、なんとその間に落とし物情報が上がってきた! あーやれやれ、その後数分で手元に届いた。関係者の皆様に感謝の言葉がありません🙏
 
パリに着いて入国審査でこのいわくつきの許可書を出したら、我が内心の安堵も知らぬ審査官に「スゴイってどういう意味だ?」と尋ねられ、ああここはフランスだと実感!この気楽な審査官も滞在許可証なくしてたら厳しい尋問するのかな???
 
ところでパリまで勝手に運んでもらった旅行鞄だが、フライト前日にクロネコから「コロコロが壊れまして、、、」という電話があった。当然一つなくなっているのだろうと思い込んでいたのだが出てきた鞄にはコロコロがちゃんと4つある。きつねにつままれたよう。報告を受けていた空港係員がコロコロを入念にチェックしてみたところ一つが引っ張ると浮き出すことがわかり、あーこれか:つまり知らなければそのまま引っ張って行けそうな不具合。クロネコさんは修理したら代金を払い戻してくれるということだったが、パリの13区の中華街で買った素性の知れぬ既に何年も使ったこの鞄、修理するほどのことがあるのか甚だ疑問。空港側はここで修理するという。でもすぐにはできないから同じようなサイズの鞄をもらいこれに荷物の入れ替え。空港係員も私同様の疑問を抱いたのだろう 「この鞄を引き換えにして古いの廃棄してもいいのですよ」 私「いいいいそれで!」 

文章で書くと簡単だがその間書類も書かされ、色々待ち時間があるからこの成り行きは時間にすれば30分以上。
 
実は私の使う地下鉄14番線も空港からの近郊線も夜間ストップするという情報をもらって最後の最後に4時間以上の長い待ち時間のある(なぜこんな便を選んだのか?もちろん少し安かったけど。それで着くのが遅くなる)フランクフルト経由便から直行便に変更したのだが、空港係員が手薄になる夜10時半過ぎに着いていたとしたらどうなっていたのだろう? それに滞在許可書なしでヨーロッパの国境フランクフルトに着いていたら?? 
変更料払っても変えて良かった〜😅
 
というわけで全て結果オーライ。
企業宣伝など滅多にしない私だが「手ぶらサービス」ってのは本当に素晴らしいです。
しかしそんな便利な日本で一層ボケボケ状態になっているので気を引き締めねば! 


* 注: 滞在許可証は普段はなくすと大変なので必要な時以外持ち歩かないようにしている。
外国人は常にも持ってねばならないことになっているが、警官に要求されても彼らは住所氏名からドキュメントにアクセスできるので顔写真と照合され生年月日ぐらい尋ねられて終わりだ。(それもパリ市内で平常時なら滅多にないが)
このマリアンヌ像の入ったチップ入りのカードはブログにも写真紹介済みだった(笑)


内容とあまり関係ありませんが:
これはモスクではありません。旧横浜税関。建築細部も面白い。私大昔に初めて船で渡航した時こんなところを通ったかな〜?
 

2023年11月24日金曜日

荒川さんの「養老天命反転地」

私の実家は名古屋西部にあるのだが、そこから木曽三川の揖斐川を上った養老町に荒川修作と彼の連れ合いのマドリン・ギンズのコンセプトの「養老天命反転地」なる公園がある。

ところで皆さん荒川修作ってご存知だろうか? 

「私はよく知ってますよ」っというか、、、
 私の子供の頃は新聞社が美術展の大のスポンサーで、その新聞社勤務の父の役得で得られる招待券のおかげで私は名古屋で開催される美術展はピカソ、ダリをはじめ、泰西名画から浮世絵、現代アートまで総なめしていた。その頃の現代美術展はコンセプチュエルなものが主流で小中学校生の私には手に負えなかったのは当然だが、その中で特に「煮ても焼いても食えんな〜」とエイゾウ少年が思った最たるものが荒川修作だった。名古屋出身でニューヨークで活動、グラフがあったり表があったり線が引いてあって絵単語が記されていて「優秀賞」なんて受賞しているのだから、少年もそれなりにすごいものなのだろうと思って見るのだが、英単語の勉強以外には何とも致し方なしとすぐにサジを投げた。それどころか以降荒川修作は敬遠。この養老の「公園」も行きたいと思ったことがなかった。実際フランスから友だちが実家にきた時も「養老の滝」は行ったが「養老天命反転地」には足を運ばなかった。
 
ところが今回、実家に住むのも最後になるかもと思って行ってみたら、この公園はものすごくおもしろかった!^_^ 
昔の作品同様理解できないのは同じとしても、傾いた床の迷路のような建造物の中を歩くとドイツ表現主義の無声映画「カリガリ博士」
(ウィキ)にでもなった気がしてくる歪んで奇怪、でもベッドとか冷蔵庫とか実際の調度品が壁に飲み込まれては透過し、天井にはテーブルがある反転世界というシュールな滑稽な愉快さがあり楽しめる。建造物は95年の開園以来そのままで崩壊しないか心配にならないでもないが、それもまたよし。逆に手入れのされた屋外公園は「不安定感」をキープしつつもなごめる空間になっている。今更ウィキを見てみると、私が食わず嫌いになった60年代後半から荒川修作も随分「進化」したらしい。といっても彼の理論を紐解こうとは思いませんが(絶対私には難しすぎる=煮ても焼いても食えんには変わりないので)
 
下のインスタからの掲載は空間がわかってもらえるようビデオ主体ですのでクリックして動画をご覧あれ。安全第一主義の日本でどこで転んで怪我するか分からない公園ってのはとても素敵です!!!

 

 

下の白黒写真は家を整理して出てきた(で即整理の対象となった)現代美術展のカタログにあった彼の作品の写真。 ほんとにね〜

 

公園でもどんぐりコロコロしそうになります

これは養老の滝。紅葉にはちょっと早かった:
 そうそう実は紅葉にいいかと思ったのが行ったきっかけだった。温泉もあるし(笑)

 参考

荒川修作のウィキ

養老天命反転地のウィキ

2023年8月29日火曜日

19年ぶり(?)のCap d’Ail

写真にするとたいしたことないですが
モナコはフランスの中の飛地の公国だが、Cap d’Ail(カップ・ダーユ)はそのモナコとフランスの国境にある町で no-madeというグループが毎年地中海に面した豪華ヴィラ Villa Roc Fleuri の、主に庭を使って毎年9月に展覧会をしている。

私がこれに2004年に参加したのは、同年の春にガーナのワークショップに一緒になったアヴィニョン近くのヴォークルーズ地方に住む英国人彫刻家のポール君 (Paul Stapleton) に誘われたのがそのきっかけだった。

no-madeの企画は毎年テーマが違うのだが04年はカップ・ダーユを通る廃線になった鉄道路線がテーマで、ヴィラについた時にゴミ箱で見つけた高級別荘地らしい立派な皮鞄に線路の石を詰め込んだ簡単な作品だったが、意外に主催者から高く評価されて(no-made 無製造とノマド(遊牧)をかけたグループ名にぴったり入ったのは確か)20周年記念に編集されたカタログにも1頁まるまる掲載してもらうという光栄に預かった。
 
 
このヴィラのガーデンオープンの企画、「流石おフランス、なかなか志の高い芸術愛好家がいるものだ」と感心されるだろうが、実はヴィラを1年に1ヶ月間公開すると不動産税の控除枠があるということで、この優遇措置には期限があり、今年でそれが終わりになる。そこで展覧会も終わり! つまりそれほど家主さんの志が高い訳ではなかった(笑)
 
だから今回は最終回。

最終回ともなると、持ち出しになるような仕事は凡そ引き受けない志の低いアーティスト私も参加せざるえない。というか、私(ポール君にも?)にとってのこの企画のメリットは、普通では住むどころか滞在もできない海岸に面した高級別荘に展覧会を口実に住み込むことができることにあった。だから行くしかないのだ。

しかしカップ・ダーユの前から決まっていたルーアンのグループ展が9月2日に始まるので作品の展示にいかねばならなく、ヴィラでのんびり滞在しながらの制作には無理があり(最近そういうインスタレーションしてないし)、カップ・ダーユの水を送ってもらって海水ドローイングを飾って済ますことにした。つまりヴィラの居間での展示で、早く来た方がいい場所が取れる、ポール君夫婦もすぐ来るというので展示作業が可能となる、つまりパリ在住の家主さんのバカンスが開ける23日から行くことになったが、そうこうするうちに突然お金儲けの話が舞い込んで来てカップ・ダーユ1泊だけになりそうになった。しかしやはり私はお金とは縁がないのか、そちらは現れたのと同様儚く水泡と消え、結局1週間の骨休みを余儀なくされることとなった。というのもバカンスの終わりでパリ行きのTGVは週末は満員、金曜月曜もべらぼうな値段で 、、、😰

その骨休み、景色のいいヴィラだが、猛暑で睡眠不足、週末に避暑に行った友達の住むニースの裏のアルプスでは雨、そして今はニースの駅で供給電気系の事故とかでTGVを3時間待ちぼうけ中。これがねー、最初から3時間待ちとか言ってくれればいいのが1時間10分待ちが1時間40分、2時間10分と時間が経つに従って増えていき、かつこれが予告ではなくて単純に現時刻と出発時間との差だから言われなくてもわかる代物で、、、3時間待って改札となり、また列車の中で待たされるのかと覚悟していたら意外にすぐ出発!!! かつちょっとだけ奮発してファーストクラスにしていたから快適、よかった〜と喜んでいたのは束の間、隣のアンティーブに停車したまま全然出ないんですけど。→ パリ午前1時40分着予定、駅からどうする!?

 
参考
 
旧HPの作品説明(日本語もあったはずなのだが、、、)
 
旧ブログによると2012年にもカップ・ダーユは訪問していたがその時は滞在していない。だがタコを見たことを書いている。それで今回のドローイングにはタコが登場することになった>旧ブログの投稿
 
 
 
これが上の写真にある今はヴィラに飾られている二つのドローイングです




2022年4月13日水曜日

バーニョ・ヴィニョーニ、あーあ世界は救えなかった。

Résumé : La première destination de mon voyage était Bagno Vignoni qui a été un lieu de tournage de "Nostalgia", un film de Tarkovsky (voir la scène vers 33-39min de film youtube ci-dessous) . Les choses ne se sont pas passé comme prévu...

ロシアというよりソ連の反体制映画監督であったアンドレイ・タルコフスキー 、彼の「ノスタルジア」(83年)という作品をご存知だろうか(ウィキ:あらすじ)。その中で映画の主人公のロシア人作家が乗る車が曲がりくねった山道を登って辿り着く*、真ん中に石で囲まれた四角い温泉プールがありそこで村人がお湯に浸かっていたその村。ここに昔から行ってみたかったのだが、90年頃トスカーナに行ったとき観光案内所で尋ねてもよくわからなかった:当時映画ファンにはタルコフスキーは有名でも、観光案内所のお姉さんは知らなくて、、、。

トスカーナ地方には温泉が多くて、名前から♨️を適当に探して偶然マストロヤンニが主演、ニキータ・ミハルコフ監督(ウィキ)のこれまたソ連イタリア合作映画「黒い瞳」(98)に登場する温泉に出くわしたことは覚えているが、どこだったかな? この映画はチェーホフものでタルコフスキーと全く傾向が異なるが良い映画だった。それはともかく「黒い瞳」の撮影の温泉地はヨーロッパではよくある、贅沢で近代的な療養施設、それに対しタルコフスキーの方は片田舎の山村の温泉で全く異質だった。だから知られざる場所かと思い込んでしまっていたのだが、今回飛行機会社からの来たバーゲンに釣られて急に思い出し、、、

90年代とは違ってネットを見ればなんでもわかる今、そこは全然知られぬ秘湯どころかバーニョ・ヴィニョーニ Bagno Vignoni という有名な歴史ある「温泉地」だった。新たに購入したトスカーナとオンブリアの観光ガイドによれば「ローマ帝国以前のエトルリア時代からある温泉で、(フィレンチェのルネッサンス最盛期を築いた)ロレンツォ(・デ・メディチ)豪華王も愛した硫黄泉。町の真ん中にある広場ならぬ四角い浴場はタルコフスキーの映画で有名になった」。しかし今のフランス人は宮崎アニメは見ていてもタルコフスキー知っている人いるのかなとかなり疑問(ガイドブックの著者の年齢を疑わせる)。その割に行き方が書いてなくて、、、そこで私の挑戦が始まった。というのも私は車を運転しないので! 

Googleの「行き方」ツールも便利だが、簡単に「ない」なんてことや、なかなか厄介そうな乗り換えのものがよく出てくる(それが正しいこともあるが)。そこで色々試してわかった「うまく探すこつ」は、近くの比較的大きい街を見つけて点々と繋げてみる。かつイタリアでは田舎のバスは日曜日はほぼ運行しないという条件もあって、可能性を探るのに写真のようにメモを書いて作戦を練ったのだった。

いろいろ検索してみると日本語のブログもあって、その中にタルコフスキーとバーニョ・ヴィニョーニ温泉」という私同様タルコフスキーに熱い思いのあるイタリア在住の方の投稿があり(映画からの写真もあり)、実はそれを読んで現状を知り少々期待が冷め、、、でも別の観光ブログでは崖のほうに温泉が流れワイルドな池同様の温泉もあるみたいで「おお、地獄谷みたいなのかな」とまた期待を取り戻し、、、かつ英仏語情報だとこのBagno Vignoniから車で20分ぐらいに Bagni San Filippo というまさに日本の露天風呂風のところがあって、一応バスも通っているし、Bagno Vignoniでレンタルの電動自転車もあるようなのでグーンと期待が再度高まり、温泉を今回の旅行の目的地として出発!

そして着いたバーニョ・ヴィニョーニだったのだが(4月8日)、芝刈り機が轟音を上げ、四角い温泉プールからは湯気も上がってなく、足湯をしている写真のあった水路にも流れる湯もない。村の下の滝も同様。湯が枯れ上がった??? どうも変だと作業服着て何やらやっている人に向かって叫んだところ、私の解釈(推測?)では「週末(あるいはシーズン?)前に湯元を切っていろいろ点検工事中」だったようで、あらま〜。貴方ならどうする?:今日はここまで=上のリンクのブログもあるし、下には「ノスタルジア」もあるし(笑) 


Bagno Vignoni
なんか湧き出てるけど? ここを蝋燭ともして渡れば世界が救えたのだが

これがお湯が流れて滝になっていたはずの崖。この池でも湯あみできたはずだった

湯量は豊富でかつては水車もあったとか


「ノスタルジア」33分〜39分ぐらいの温泉シーンをご覧あれ。私の思い入れがわかっていただけるかも。(* 注:つまみ食い的に見ると私の記憶はかなりあてにならないような気もしてきたが)

 

航空券を買ったときはまだロシア軍のウクライナへの侵略は始まっていなかった。つくづく戦争ほど愚かな行為はないと思わされる。ましてや地球規模の経済があり環境問題がある今、尚更。当然それ以上に翻弄される市民の悲劇、報道を見て涙してしまう。ちょうど今フランスでは大統領選挙、日曜が第一回の投票だったが、論点が原油上昇による「購買力」の低下などになってくると「それどころじゃないんじゃない?」と私は正気ではいられなくなってくる。そうでなくても選挙前の狂騒からの逃避が旅行を計画した一つの理由だったが、こんなことになろうとは。全くの無力だと蝋燭ともしてプールを横断して世界を救えたらと夢想もしたくなる(悲)


 

 

2022年2月14日月曜日

人生のつづれおり - Mayumi Inoué 展

楽譜のつづれ織り
Sujet principal : Exposition de Mayumi Inoué  "Motif de vie".

人生はつづれ織り、嬉しいこともあれば悲しいこともあり、、、なんて口ずさんで帰ってきて歌詞を見たらキャロル・キングの「タペストリー」は全然そんな簡単な歌ではなかった(曲の出た71年頃の日本のラジオ番組ではこんな風に紹介をしていたと思うけど〜)。彼女の曲は素朴な歌詞が多くて中学英語で大体はわかるのだがこの曲はもっと寓意的で、、、聞いてもよくわからなかったはずだ。(アルバムは当時大ヒットでよく知られている曲が多い。「タペストリー」はタイトルソングだが、シングルでもなかったのであまり聞かなかったけど←自己弁護

それはさておき私にこの曲を思い出させたのは
織り込まれた写真はウジェニの息子
Mayumi Inoué (井上麻由美)
という若い日本女性作家の展覧会の、ウジェニさんという1人の女性の証明書とか出納書とかのドキュメントをつづれ織りした作品。ドキュメントは井上さんの友達がナントの一軒家を買った時に屋根裏にあった一個の金属箱に入っていたそうだ。それは以前の家主が引っ越ししてきたときにすでにあったという。箱の中にはウジェニさんは自分の「人生」の種々の記録と髪の毛までを残していて、井上さんとお友達はそれに基づき、1895年生まれで2つの世界大戦を経験したお針子さんウジェニの苦難多き人生を見出し再構築した(最終資料は封の切られていない1977年の封書でこの年に亡くなったと推測される)。井上さんはそれらの記録と髪で人生を織り込む作品を彼女の住んでいたその家で作ったというストーリー豊かな作品なのだ。壁に飾られた作品ばかりではなく、箱を譲り受けたお友達の俳優・監督のジョン=マリ・ ローヴェレックさんとウジェニの生涯を語る人形劇まで企画中とのことで、それが展覧会場でも開催される。この辺のお話、私が書かなくても彼女のサイトにきちんと日本語で説明されていますのでこちらを参考に 
 
最近はドキュメントのディジタル化で事情は変わっただろうが、私が40年前にフランスに来た頃には電気・ガスの領収書、銀行出納明細、手紙も「なんでもとっておけ」と忠告されて驚いた。例えばフランスでは各人が税金の「自己申告を」するが、間違った申告をすると3年、あるいは6年、状況によっては10年遡って調べられるらしいのだ。税金でなくても何か問題の起こった時は必要になる:だからなんでも取っておく。この昔に遡る「遡及性(rétroactivité)」という単語を初めて知ったのは、以前のアパートで大家さんから3年間値上げしてなかったから急にまとめて差額を支払と請求された時。そんなバカなと思って市民相談室に行ったら家賃は6年間(だったと思う)遡及可能ということで、、、😟 滞在許可書の申請などでもその頃は窓口で本物を見せて自分で予め用意しておいたコピーを置いてくるという形式で、わんさと「紙」を持っていく。アーティスト申請も最初は落とされたが、「大きさ、量の制限なんか無視してでっかい資料持って行かなきゃだめだよ」とのアドバイスを受け、そうしたらパスした。書類は厚さで勝負! 「無用な書類の山」にはタペストリー (tapestrie) ならぬパペラスリー(paperasserie)という言葉があるほどで、我が家にもパペラスリーがはいったボール箱が一杯ある。


これも楽譜から:こういう読めない方が私の趣味

だからウジェニさんが箱の中に「紙」をいっぱい貯め込んでいたのはわかる。でも「髪」が入っていたというのは私にはかなり不思議なのだが、井上さんは癌の化学治療をする人の髪で織った作品もあって(「いのちの糸」プロジェクト) 、、、これは私にはちょっとヘビーすぎ)、そうでなくても「織り」の行為は私には自分の羽を抜いて夜中にカッタンコットン「鶴の恩返し」、自分では絶対しない忍耐の世界で苦しそう(想像しすぎかな?)

他には使われた楽譜を織ったものも。音符が踊っていると少し気が弾みますが、これでキャロル・キングになったのか? ちゃんと歌詞を読み直して信頼できそうな和訳を見ると閉じ込められていたウジェニが解き放たれたこととの類似性があると解釈できないこともないから私の「鼻歌」は正しかったのかも**(笑)

テクスチャー作家は沢山いるが(ほぼ女性、男性もたまに)、布とか糸、自然素材(蔓とか髪の毛とか)、最近はプラスチックゴミとか、様々な素材を使え、コンテクストに合わせられて結構現代美術しやすい世界 * だが、作品としてはぐちゃぐちゃと糸が絡まる増殖的でのめり込み型のものが多い。それに対し井上さんの作品はシンプルで、使った素材の由来ともある距離を置いたクールなストーリーテラー的なところが私は気に入った。(私の意見は主流派じゃないので逆にそれが弱点かも。まあまだまだ発展されるでしょう:若い人は羨ましい←またまたエイゾウのブルース

展示スペースは画廊ライブラリーといっても書籍と独立していて、地上階に地下と規模も大きく40点もの作品を展示中。3月19日まで続く。でも水曜と土曜しかここは開かないですって。

「星の王子様」

インスタレーションも


galerie librairie IMPRESSIONS - 17 rue Meslay 75003 Paris  (01 42 76 00 26) にて

3月19日までの水曜(18〜21時)と土曜(14〜20時)

人形劇« Boucles »は3月19日(土)19時より - ウジェニがなぜ髪を残したか紐解かれるらしい
 
Exposition jusqu'au 19 mars 2022, Ouvert mercredi de 18h à 21h et samedi de 14h à 20h
 
Présentation du projet théâtre  « Boucles » 
samedi 19 mars 2022 à 19h avec Jean-Marie Lorvellec (comédien)
Une histoire qui explore pourquoi une couturière du XXe siècle nommée Eugénie, nous a laissé ses cheveux.
 
 
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* 考えて見たらテクスチャー・アートに関し昔少しだけ書いていた:2019年3月 縫・織・編
 
** キャロル・キングのタペストリー、歌詞+和訳付きYouTubeがありました(ただし訳は前のリンクの方が正確)
 
 

 

2022年2月2日水曜日

ベルガのパトゥムと英三が悪魔になった理由

The main theme:  La Patum de Berga - the reason why I became a devil

 
さて、前回書いた「悪魔祭」の話。
バルセロナ(カタロニア地方)に行っていた頃(1989〜95年)はまだまだフランス語もいい加減(今でもだがその度合いに大きな差がある)で、フランス人の友達は「1ヶ月もいればスペイン語がわかるようになる」、現地の人には「カタロニア語のほうがフランス語に似ているからもっと簡単だ」なんて言われていたが母国語がラテン系であるかないかが運命の分かれ道:92年にはバルセロナで炙り出しドローイングで生まれて初めて個展らしい個展をさせてもらったし、後述のような次第で「悪魔」にもなれるしで、もう少し語学の才があったらかの地で暮らすことになったかもしれないのだが、全然習得しなかった😕。
お祭りのことも当時いろいろ説明されたであろうが何が何だか。これを書くためには結局インターネットで勉強しました😅
 
さてLa Patum de Berga(当投稿ではパトゥムとします)で検索したら、なんと2008年にユネスコの無形文化遺産に登録されていた!毎年5月末から6月の「聖体祭週間」に催され、町の記録では1454年に遡る。騎士、サラセンの王の巨人、頭でっかちの小人、はたまた竜や大鷲の怪物など、様々なキャラクターが登場し、その一連のシーンとパレードから構成され、特に花火の存在、そして何よりも市民の参加の多さが特徴。
百聞は一見に如かず:次のスペインのテレビの報道を見てもらおう 


 

バルセロナおよびその近郊にはCorrefocコレフォックという秋の「大祭」(あるいはMercè メルセ(聖母)祭)というのがあって、パトゥムと構成はかなり似ているが、大都市だけにスペクタクル性が増し混沌性が薄い。とはいえ初めてコレフォックで大きな龍たちが火(花火)を吐きながら行進し、人々が火の粉を浴びながらもそれを阻もうと壁を作る(かつこれは誰でも参加できる)一種混沌とした夜祭を経験した私はかなり興奮(そもそも火に弱い - コレフォックは文字通り「走る火」を意味する)、以来即私はこの祭りのファンになり毎年9月にバルセロナ詣(笑) そのきっかけを作ってくれたのは86年のドーヴィルの浜辺の版画インスタレーションを手伝ってくれたノルマンディのA君で、彼がバルセロナ近郊の村に見つけた旧司祭宅を改造したレジデンスを見つけ、版画工房があったので喜んでそこに行った。その頃の私の作品のメインは室内ですると焦げた野菜果実の匂いが立ち込める炙り出し、それに版画、かつ普通の銅版でなく版によってプレスの圧力を変えねばならぬテクニックを使っていたので、ほぼ1人でプレスを独占できるのは至上の喜びだった。ある日コレフォックの冷めやらぬ興奮をドローイングにしていたとき、近くの地方都市G市の文化局で務める人がそれを見て町のコレフォックのポスターに使いたいと言い出し、「ご自由にお使いください」。そのお礼としてそのG市の悪魔隊の名誉隊員となり祭りに参加する栄誉を得たのであった。 

それがである、悪魔の間では「コレフォックなんて生温い、ベルガのパトゥムに行かなきゃ」と言うのだ。ここでやっと話がパトゥムに戻ったが、私が「悪魔祭」としたのは前述パトゥム祭のメニューの一つで「火の悪魔たち」Plensと呼ばれるもので、コレフォックでの火吹きの主役の大きな龍に対し、悪魔は人=同等サイズだからコンタクトが肉弾勝負となり、「カタロニアの火祭り狂」には特に人気があるわけ。まあ肉弾勝負と言っても「戦い」ではなく、悪魔の邪魔をして火を沢山浴びせかけられれば町民衆はそれで箔が付くという具合でそれを満足させるのが悪魔の仕事(笑)。でも悪魔の役を預かると押されて花火を吹く松明(?)を落としたりしたら事故に繋がりかねないので、なかなか責任のある名誉職でして。。。こうして悪魔の端くれとして私も参加させてもらうことになったのだった(「本物の悪魔」はスペクタクル性の高い円陣組とか色々な「振り付け」を知ってなければならない)。
 
これ円陣組だ

混沌混沌

これは「八幡の大蛇」(複数頭の龍)の行進かな?もう覚えがありません

これも円陣かな?
 
悪魔はフード付きの分厚い生地のユニフォームがあるが、一般の人は火祭りに参加するには長袖の綿のジャージにジーパンが必須、火の粉から顔や頭を防ぐため、濡れタオルを頭に巻いて帽子を被ったり、写真のようにバイクのヘルメットをしたりしてる人もいる。
 
 
 
バルセロナのコレフォックは初めて見たときはなんと荒々しい祭りかと思ったが、事故もあるのか数年のうちにかなりおとなしくなった(一般的に言ってバルセロナは92年のオリンピックを境に都市の整備も進み近代化、かつての土着性というか胡散臭さが極めて薄くなった。ユネスコのページ(写真あり)には「パトゥムも都市化・観光化により性格が変わらなければいいが」と書いてあったが、もうすでに私が経験した「悪魔祭」ではなくなっているかもしれない。
 
中央がG市のラモン(だったかな?)さん

なつかしい写真をいっぱい出したついでに、なつかしい作品も:
 
Correfoc acrylique /papier 91
これがG市の91年コレッフォク祭のポスターになった。サイズは???制作は多分90年

その頃の版画「コレフォック」(1991) 34x34cm(=版サイズ) 

La Patum(1991) アクリル画(キャンバス)64x81cm

 
上のウダンに出した作品、95年としていたけど自分の過去を探ってみると食い違いがある。91年が正解。追ってブログは修正しました。
かつ悪魔の写真もパトゥムだったかG市のコレフォックのだったかだんだん自信がなくなってきた。パトゥムにしては人の密集度が少ない。やっぱりG市かな? 自分のことなのに困った〜(自らの伝説を作る意図など毛頭ないのですが)。
 
昔のドキュメントと記憶をもう少し整理して、次回はピカソに遠慮せず、ウェブ上で「フィエスタシリーズ」の回顧展でもしようと思います(笑)
 

2022年1月29日土曜日

ちょっと変わったピカソ展

Sujet principal : Exposition "Picasso l'étranger" au Musée de l'Imigration

今度はバゼリッツかなという予定が、前回のドラ・マールの恋人で、前々回投稿の仏共産党の党員にもなったピカソへ!

開かれているのはパリの東ヴァンセンヌの森の入り口の「移民博物館」*。だからただのピカソ展ではない。冒頭のプレゼは次の通り:

これがピカソの警察書類で40年間で150万件の調査に及ぶ量になる
「彼がフランス人になることはなかったということを知る人は少ない。1940年4月3日帰化を申請したが拒否され、新たに申請することはなかった。

実は1901年に早くも、ピカソは「監視下の無政府主義者」として警察に登録され、40年間、彼は外国人、左翼、前衛芸術家として疑惑の目で見られることになる。1949年まで彼の作品はアメリカなどでは賞賛されていたが、フランスのコレクションにはわずか2点しかなかった。しかし、彼は独特の政治感覚により、旧態依然の制度のフランスを巧みに渡り、芸術より工芸、首都より地方を選び、南仏に居を構えた。

彼の裏にあった不安定な生活、彼の生涯の障害を発見することは、私たちの国(フランス)そして我々自身の見たくない側面を映し出すのではないだろうか?」

 

そして第一章はピカソのフランス到着(以下も説明パネルから大幅引用)

1900年:1回目の旅行-万国博覧会

19歳にならんとしたピカソは友人のカサジェマス(Carles Casagemas)の案内で、ピカソはパリのカタロニア人のコミュニティーの一員となった。動く歩道、電灯、最初の地下鉄など、超近代的な大都市に魅了され、美術館や画廊を熱心に探索した。

1901年:第2回旅行-ヴォラール画廊展

ヴォラール画廊での展覧会を企画したマニャック(Pere Mañach)の招きでバルセロナから再来したピカソは、クリシー大通りのマニャック邸に滞在することになる。 彼はここで記録的な速さで、64点の作品を1ヶ月半の間に制作。激しい色彩から人物が浮かび上がるその絵は美術評論家のコキオに絶賛された。

と快調な出だしに見えるが、

その直後、ルキエ警視は、コキオの賞賛の文章を引用しながらも、モンマルトルの情報提供者の言を取り入れ、ピカソの絵のテーマを証拠として「ピカソは彼をかくまう同胞の思想に共感した」との最初の警察書類を作成、その結果、彼はアナキストとみなされることになり、それ以来40年間ピカソは、警察にその烙印を押されることになった。(警察に一度目をつけられると、、、「ああ無情」です)

しかし警視も歴史上に名前が残ってしまって大変だ(笑)

1902〜03年の3度目の滞在は放浪生活。この時期詩人のマックス・ジャコブと出会う。

1904年には「洗濯船」に居を構え、05年アポリネールと出会う。 

1906年はGosol **というピレネーのロバに乗って18キロの警察も絶対来ないという山村で2ヶ月間過ごしたが、この間にカタロニア・プリミティブ(中世宗教美術)に出会い、キュービズムへの道が開かれることになる。

これはGosol滞在時の素朴なスケッチ
 

とこの調子で書いていたらピカソの伝記なってしまいそうなので、ぱっと飛ばし時は1940年:

4月3日、ピカソはフランス帰化の申請をする。上院議員ポール・カトリや高級官僚アンリ・ロージェの強力にサポートがあり、警視部長の好意的な意見もあって、内閣も特別な配慮をしたこの請求は短期間で処理された。

その頃ピカソが、おそらくパリの外国人排斥的空気を避けて住んでいた大西洋岸のロワイヤン Royan。私も馴染みが少しあるがこのように華やかな感じはする。こんな明るい絵を描いたピカソですが、、、

ピカソには旅行の度にこういう警察発行の移動許可書が必要だった

現在はポンピドーセンターにあるコラージュ作品の「ミノトール」(28年作。多分私はピカソの中で一番好きかも)からサポーターである上院議員の夫人だったマリー・カトリは35年にオブッソン織のタペストリーを作らせ、アメリカ市場で大評判となった。
 

しかし審査結果(5月25日)は1901年の報告書の主張の一部を繰り返し、「この外国人は帰化する資格がない」、「国家的観点から非常に疑わしいと考えられる」とした。

説明パネルは「4月3日から5月25日に何があったのだろう?」と書くのみで終えているのだが、まさに第二次大戦勃発時、月日をウィキペディアで確かめて書くと:

ナチスドイツがポーランドに侵入をしたのが1939年9月でフランスはドイツに宣戦布告。40年の5月にドイツはフランスに侵攻。6月にはドイツ軍がパリに無血入城、講和条約でペタン内閣が誕生。

そんな時期である。かつその前にピカソは反フランコ反ナチの壁画ゲルニカを制作(37年)、そうでなくても洗濯船の時代からのコレクターのカーンワイラーもスタイン兄妹もこの時代嫌悪の目で見られていたユダヤ系で、彼の作品はナチスが「退廃芸術」とした代表例。国籍取得滑り込みセーフを狙ったとしても楽観的すぎたとしか私には思えないが、、、。

 

また飛んで1944年、6月に連合軍がノルマンディー上陸、8月にパリ解放。その10月に先に書いたように仏共産党の党員となり、平和の鳩のポスターも描いた。

戦後はご存知のように世界に知られる「天才ピカソ 」となり、フランス国籍など頼めばすぐに下りたはずだが、それをしなかったのはなぜだろう?戦時中は仏国籍があるということが身の安全の保障になり得たが、今更? スペイン(カタロニア)人としての自覚の方が強かった?  そう思うとシトロエンの自動車「ピカソ」なんてのは変なネーミングだなあ。

そんなこともひょっとしたら展覧会の最後のあたりにあったのかもしれないが、余りの盛り沢山の内容を見切れないうちに閉館時間となり、戦後編は見られませんでした:大した内容は残ってないと思うけど(笑)

ご存知ドラ・マールがモデルの「泣く女」。ゲルニカ制作当時の恋人かつ協力者でした。「泣く女」も沢山あるけどこれはなかなか秀作でないでしょうか

来年5月フランスの大統領選挙があるのですが、反外国人をあからさまに主張するような候補が何人もいて、かつ歴史を無視した嘘をついても人気があるという「おフランスどうしたの?」と泣くような状況がありまして、、、それもあってこれは一層素晴らしい展覧会なのです。
 
「異邦人ピカソ」展 2月13日まで >移民博物館サイト


注 

* ヴァンセンヌの森では1931年に植民地博が開催された。アフリカ、インドネシアなどの仏領植民地を一周するという趣向で、今ある動物園もこれに由来する。その博覧会のメインビル「植民地パレス」は、今の13区のアトリエに来る前に10年以上近くで暮らしていたので思い出深い場所。その頃は「アフリカ・オセアニア美術館」でよく行った)
 
** ググってみたらピレネー山地のスペイン側。私は1990年前後バルセロナに屡々行っていて、ピレネー山中のベルガ Bergaという町の Patumという「悪魔祭?」に連れて行ってもらったことがあるのだが、地図を見るとそこから遠くなかった。車で真っ暗な山をずーっと走り続けた末に村が忽然と現れて「別世界」に入ったような気がしたのを覚えている。絵画史に革命をもたらしたピカソのインスピレーションと比べる気はないが、私は火の粉が飛び交う過激な祭りに影響されて連作を作った。昨年秋にウダンの地下に展示した昔のフィエスタシリーズ(1991年)がそれ:いつもの我田引水的自己宣伝です(笑)
 
去年まで展示される機会のなかった91年のフィエスタシリーズ。やっぱりこれではピカソには負け負け


探したら「悪魔祭」のプリント写真が出てきた。他にもいろいろあるのでまた次回にでも:そもそもなぜ私が悪魔になっているか不思議でしょ?
 
 
 
悪魔にしてもらえて興奮した昔日のエイゾウ
悪魔は火の粉を散らす。これ多分私です