2018年8月28日火曜日

ミラベル、川端、ランボー

前回のミラベルの記事は思った以上に日本の知合いの方の食指を誘ったようで、、、

ちょっと美味しいと言い過ぎたかな?
まあ私が「ミラベルが美味しい」と言うのと誰かが「坂田英三の作品は素晴らしい」というのは同じぐらい「ゆるぎある」真実なので、嗜好が違えばそれまでだと思うのだが、私がミラベルが好きなのは「味」だけの所為ではない。それは分かってもらっていると思うが、念を押せばその「季節感」。

季節の移ろいに心動かされるのは日本人特有とよく言われるが、勿論ヨーロッパにもこういう果物もあるし、花ではミモザとか季節柄華やかなものがある。だから同じような感覚は絶対にどこの国の人にもあると思うのだが、それが文学の規範にまでなっているのかどうかが大きな違いだろう。

前々回の井上有一の書道展の投稿で道元禅師の短歌

 「春は花 夏ホトトギス 秋は月 冬雪さえて涼しかりけり」

の書を写真に挙げたが、この詩は川端康成がノーベル賞受賞講演の冒頭で引用し、日本人の季節(その自然)への感受性は欧米のそれと対峙すると主張した。こういう「花」、「月」という単なる単語だけで心が騒ぐ共通舞台があるというのは、やはり日本文化のかなり特殊なところだろう。だからこそ井上の「一字書き」も成り立つ。
でも今更ながら川端の講演「美しい日本の私」を読んで井上の書「春は花 夏は、、、」を見ると違和感が拭えなくなる。いつも夏のような文字で、あくまでも自己に対して求心的であり、月を見て人を思うというような情緒は感じられない。道元よりランボーの詩でも書いた方が相応しいかも?

実は土曜日にかなり古い翻訳のランボー全集をもらってきて、ぱっと開けた頁が有名な「十七歳…」。冒頭はよく引用される ”On n'est pas sérieux, quand on a dix-sept ans." 直訳すると「17歳の時は、真面目でない」。貰った本の訳は「十七歳、堅気でばかりはをられませぬ」とかなりふるった(古った)ものだが、その後の一節を引用させてもらうと

「六月の夜! 十七歳! 陶酔せずにはをられませぬ
血の気は謂わばシャンパン酒、頭に上がってくるのです……
そぞろ歩きをしていると。まるで小さな蟲のやうに
ぴくぴく動く接吻を、両唇に感じます ……」

そうそう、春とか初夏とか、どうもこちらの人は自然の移ろいなんてものではなく、自分の体の中で、つまり欲望(あるいはリビドー)の変化で感じるらしい。ある意味日本人より「自然児」なんですね〜。日本人、フランス人と一般化するのは良くないかもしれないが、これは私がかつて文化ショックを受けたところ。それは兎も角、井上の書はこの方に似合っている。

サイ・トゥオンブリーの描いたイーリアッドの強者の盾
これも仏ラジオ局のサイトの宣伝に釣られてクリックしてしまった(本になったらしい)ホメロスの特集番組。ホメロスの叙事詩が如何に素晴らしく「ゆるぎなき名作」であることを熱弁し、私のミラベル以上にベタ褒め。しかし皆さんも経験あるかもしれないが、実際に読んでみると、特にイーリアッド、私の語学力の低さを別にしても(日本語訳でも多分)「血湧き肉踊る」とはいかないし、一般的には絶対に難しいと思う:本当に普及を願うならベタ褒めは良くない。神々の名は熟知していなければならないし、鎧がどうとか盾がどうとか、おそらく日本人の琴線に触れるような自然描写はないのでは(いつも戦争していて季節なんてあっただろうか?)。
何故か夏になるとホメロスが話題になることが多いのだが、どうも西洋文学の礎としてのホメロスを喰いものにしている作家が多いのではないかと私は怪しんでいる。

私はミラベルを食べているけれど喰いものにはしていない。純情そのものです。


引用した古風な村上菊一郎訳「小説」。そのRimbaudの"Roman"の原文は:

Nuit de juin ! Dix-sept ans ! - On se laisse griser.
La sève est du champagne et vous monte à la tête...
On divague ; on se sent aux lèvres un baiser
Qui palpite là, comme une petite bête...

古い訳も研究(あるいはコレクション)の対象になる方には、頂いた方には申し訳ないが、全集差し上げられますのでご連絡ください

2018年8月24日金曜日

ミラベルと私

ミラベルの最盛期になった!

(ミラベルが何かはもう説明しなくても良いかもしれないが、最近私のブログを読むようになった日本の方のために敢えてまた書くと、右写真の「ロレーヌ地方名産の8月中旬から2週間ぐらいが旬で姿を見せたかと思うとすぐに消えてしまうの黄橙色のプラム系のフルーツ」。直径は2〜2.5cmぐらい

今年はずーっとパリにいて碌に絵の仕事をしないので食べるは食べるは。価格が低くなって来た最近は少なくとも2日に一度は買っている。

ミラベルファンと自称する私にも、美味しいかどうかの店頭での判断は難しい。基本的には黄色が濃くなり橙色帯びて来た熟成したものしか買ってはいけない。勿論一粒頂戴して味見はするが、この抜き取り調査のばらつきは結構大きい。

私はフルーツ専門店からスーパーまで万遍なく試す。というのも値段が高ければ美味しいかと言うと私にとっては絶対そうでもないから。どうも市場のプロにはサクっとした感じと酸っぱさの少し残る、つまり「スモモ」感のある方が好まれるようで*、そのほうが高価な気がする。また一方ではフランス人好みらしいすごく甘いのも良い値がつく。私はジューシーで適度に甘いの好きで、だから経済的で良いのだが、一方で風味の濃さは値段に比例する傾向は否めない。かつ数週間しか市場に出回らないので、価格は最初は高く、そして低下し、また高くなるという、供給量を見事に反映したカーブを描く。

ねっ、悩ましいでしょ。だから私は一層ミラベルが好きになる。

昨日朝市で買ったのはキロ当り6.8€だったかな(?)、それが今日スーパーのモノプリに行ったら3.6€。これはかなり怪しい値段だが、粒も大きくて赤みがかり美味しそう。というわけでまた買ってしまった。結局ほぼ半額というコストパーフォーマンスは十分以上に果たしている味だったが、わざわざ買い増しするほどではなかった:これも私の作戦で、適度に買って本当に安くて美味しいときは買い足しに戻る。

この味の違い、メロンとか桃とかに比べると当たり外れの差がずっと小さく微妙なのだが**、私にとって一番信頼できる味のバロメーターは何といっても食べる速度? 例えば昨日の朝市のは今朝で終わっていた。だがこれは結果論にすぎず「美味しさ選び」の役には立たない。また日曜の朝市で同じ店に行っても同じ価格と品質は保証されない。ひょっとするともっと「盛り」になって安くて美味しくなる可能性もあるしその反対の場合も。つまりクライマックスまで行って、それを越したら「ああ、季節は終わった」と諦めて来年をいとおしく待つしかない。この切なさ(刹那さ?)、いいものです。昔書いたけど、一年中ある野菜や果物で溢れる今、その中でかたくなに「季節感」を守ってくれるのが何よりも素晴らしい! 



*  これがレーヌ・クロード(関連投稿)の方が美味しいという人が多い理由かも
** だから最初に挙げたチェックさえクリアすれば全くの外れということはないと安心してよい

最後に今までの内容ある(?)ミラベル投稿(つまり今日は内容なかったと反省しております)
を年代順にまとめると: 

「ミラベル食べ放題」2011年9月(豊作の年でした)  
「頑張れミラベル」2013年9月(私が好きな理由)
「ミラベル bis」2013年9月(ファンの多い緑のプラム、 レーヌ・クロードのことも書いている)

「バカンスもミラベル」2014年8月(クライマックスはミラベルのスフレ)


ところで昨年、一昨年、バカンスに行かせてもらったユー島の庭にミラベルを植えてもらった。下が島から送られて来たその写真。早く大きくなって沢山実を付けてもらいたいものです。島だと塩味がつくかもねー。


2018年8月13日月曜日

深みにまさる井上有一展

A popos de la splendide exposition d'un calligraphe avant-garde Yuichi Inoue à la Maison de la Culture du Japon

会場風景
日本文化会館で開催中の井上有一の書道展、素晴らしかった。

でも我が輩が何をか言わんや? そもそも「習字」なるものが苦手で、成績優秀なる私が通知表で「2」なんてつけられたのは書道ぐらい。かつこれが授業をさぼったとかいうのでもなく、勿論前衛を見真似てとかいうのでもなく、ちゃんと手本に沿って何度も書き直した結果だから質が悪い。ちなみに隣席のA君はさっと一枚書いて私に「出しておいてくれ」と言って何処かへ消えてしまうのだがいつもはり出されていた。少なくとも授業中の努力は評価されない:つまり芸術である。ひょっとすると先生は「書道はただ字を写すのではない」ということを諭したかった?なんて言うのは私の思いすごしで、事実はただ字が下手だったということだろう。
春は花夏ホトトギス秋は月冬雪さえて涼しかりけり(道元禅師)

鳥屋(とや)に雪が降ってなかなか溶けず鳥屋に行く日待っている(?)***
では井上有一の字は上手いのか?

よく日本では何事にも「基礎がちゃんとできていて崩すのは良いが、、、」などとたしなまれるが、 井上は
「書もへったくれもあるものか。一切の断絶だ。創造という意識も絶する。メチャクチャデタラメにやっつけろ」
と極めてラディカル。

しかし一方、井上自身最晩年に「ぼくのような凡くらでも七十近くになると、一点でいいから王羲之、顔真卿、空海、大燈に匹敵する字を残したいと思うようになって、今日もまた今日もと仕事場に入るのである」* と言っているから「古典の古典」は評価していたということになる。

ネズミの穴を見ながら字を書いている 爪切った指が十本ある
だが「習字音痴」の私は恥ずかしながら私は「古典」の素晴らしさもわからない。
だから「ここは一番フランス人になりきって、絵として観てしまおう」と思ったのだが、「貧」「足」なんて書いてあって、そこから意味を剥ぎ取るのは不可能な挑戦。
フランス人なら抽象画として見て、字の意味であるタイトルを見て「ふむふむ」と思えば済むかもしれないが、これでは書の本質を誤る。なぜなら「漢字」があってこそ作品が成り立っているのだから。つまりこれは花の代わりに「花」が描かれている、つまり主題が極めて明確である「具象画」と思った方が筋が立つ。だから読めないほど変形された字はピカソ(俗に言うところの(笑))。

但し実際の花から抽出された一般的概念が「花」であると同様、「花」という漢字が形を持ち、「草冠に化ける」に分かれたりし、またおなじ「ハナ」でも「華」とは違う。「足」のようにかつ音読みと訓読みで意味が異なったり ** 、こうした何層もの概念が交錯するので複雑。日常では、それはただの伝達記号と化し、そのようなことは考えられないが、「書」はこの漢字の「深さ」を抜きには成立しない。


例えば「上」:絵画として見ると、構成およびバランス、かなり突飛なものだ。しかしそこには既に「概念」があり、記号化された文字に書家は再度「生命」を吹き込む。 西洋絵画でマレビッチが概念を抽出して「黒い四角」に至ったベクトルとまったく反対の行為をしていると言えよう。
やっぱり上と読んでしまう「上」

この書と言う特殊な表現の土俵で明らかに井上の作品は自らの魂の発露を追求をしたと思うのだが、以上のことは彼の言葉を借りると、

「書は万人の芸術である。日常使用している文字によって、誰でも芸術家たり得るに於て、書は芸術の中でも特に勝れたものである。それは丁度原始人における土器の様なものであるのだ。書程、生活の中に生かされ得る極めて 簡素な、端的な、しかも深い芸術は、世界に類があるまい」

「私が書く文字は日本の社会の中で長い間使い古され今も使われ、さらに私の手の脂がしみこんだものであるからこそ、全生命を投入して書的空間を表現することが可能なのだ」


檄文では漢文体と口語体が混ざる
今回の展覧会は有名な「花」「貧」「月」などの「一文字の書」のみでなく、私は今まで見たことのなかった、草野心平の詩、宮沢賢治の童話の抜粋、それに自らの文(奇跡的に生き残った東京大空襲の記憶から、経済社会批判、あるいはユーモラスな語り口の人生回想)を毛筆のみならずコンテ書きしたものも多く展示されており、それらも同じく素晴らしい。消したり塗りつぶしたり、アール・ブリュット(参考)の作品のようなところもあるが、書かれている文章が意図的に選ばれコミュニケーション可能なところがアール・ブリュットとは全く違う。共通点はタッチがブリュット(=生:ナマ)なところのみ。

よだかの星
以上ごたくを並べたが、結局何故素晴らしいかは??? 強いて言えば前引用文の『全生命の投入』具合だろうが、誰かがデタラメに書いたものを横に並べられて「鑑定」できる自信は私にはない。

近年日本の書道家が個展会場で大きな字を書くことをパーフォーマンスとするのに何度もお目にかかったが、それぞれ作家さんは非常にかっこ良くそれをこなしていた。書もダイナミックだったし、「前衛の古典」である井上の業績をふまえてのことだろうので門外漢の私には文句の言い様がないが、それがすぐ展示されると「そんなものかなー」とのその都度不思議に思った。先のA君と私の差と言えばそれまでだが、 私の場合、大昔にバルセロナで「あぶり出しドローイング」の個展をした折、オープニングのパーフォーマンスとして描いた大作は駄作だったので、あぶりついでにそのまま焼き切った(実は初めから成功する筈もないと思っていたからそのつもりだった)****。映画編集・監督のヤン・ドゥデさんが制作過程をビデオで撮ってくれた時の小品は珍しく見事に成功して、ホッ。本当に冷や汗たらたらだったけど、ただ心臓が弱いだけかな〜?

何れにせよ「全生命を投入する」とは、言うも行うも難し …
 
これが本日のたわいもない結論。


「井上有一 1916 - 85 書の解放」展 
9月15日まで:日本文化会館の展覧会ページ(日本語)

展示も特に「現代アート」風にせず、あっさりしていて良かったと思う。 


注記:

井上有一の略歴等の詳しいページの参考リンク(日本語)

* この文は「しかし今日よりも明日、明日よりも明後日と向上する約束などはどこにもない。長生きすりゃ、そのうちいい字が書けるだろうというようなうまい具合にいくとは誰も保証しない」と続く

**  会場で「足」という字は本当に走っているみたいだなと思って見た後、解説(翻訳)を見るとde suffireと書いてある。確かに「足りる」だけれど私は違和感を感じた。勿論漢字の語源論を調べればこの二つの意味は関係を成すのだろうが、日常では音訓で違う全く違うものを意味してしまう。かくなるごとく漢字の概念というのは考えると想像を超えて多義的。この「足」に関しては井上が「足る」と読ませてそうで、彼は私が面白いと思う多義性を文字通り足切りしている。事物ではなく心象ということか?

*** フランス語の翻訳を助けに解読



自らの死を視野に入れて、、、


**** 1992年! あの頃は面白かったな〜。でもあともう一踏ん張りしなきゃね(笑) 
あぶり出しドローイングに関してはこちらのアーカイヴページへ 五十肩で挫折中ですが今夏は「海水ドローイング」と「あぶり出し」をくっつける試行錯誤もし出しました(作品例)

井上の展覧会は「ジャポニズム2018」の一環として行われており、凱旋門からほど遠くないロスチルド館での「深みへ‐日本の美意識を求めて‐」展とカップリングされている(一枚の入場券で二つの展覧会が見られる) 。 こちらは「歴史を超え、空間を超え」といえば聞こえが良いが、展示自体は玉虫色、それに似たものどうしを並べてみる趣向、私には「深み」が全く感じられなかった。でも展示作品は若冲をはじめ、なかなか目に出来ないものが幾つも来ているので、こちらも是非どうぞ。(8月21日まで)

 「東洋趣味の抽象」(本人は否定しているが)で井上と同年代ってことで比較できないこともない、ザオ・ウーキー(1920年中国生 - 2013没)の回顧展が近代美術館でやっている。好きな作家ではないが今回の展覧会は質の良い大作がゆったりと並んでいる。点数も回顧展にしては少なくてよい。(1月14日まで)

日本文化会館、近代美術館、それから先日紹介したギメ美術館のキム・チョンハクロスチルド館の「深み」、この4カ所まあまあ近いので、頑張りたい人は全部廻れるかも(笑)。

しかし今日の投稿は無茶苦茶時間がかかった! 写真と引用でごまかしたつもりだったのにどうしたことか???
 
これなしではパリでは話にならない:「アムール」(笑)


2018年8月4日土曜日

一見元気そうな私の日課

五月以来五十肩をかこっているが、毎朝ジョッギングまでしているので、一見非常に元気そう。

手を肩より上に挙げないことならほぼ何でも出来るし、デッサンしないと決めちゃうと気楽なもので、朝から走っても困ることないし(かつ猛暑で朝しか走れない * )、、、加えて走っているといろんなこと忘れて気持ちがよい。

最初は普通に使っていた履き古しの革の「ズック」で走っていたが、スーパの超安売りでそれ風のランニングシューズを買った(マークを気にする若者には不思議そうな顔で見られる)。早歩きか走りかのグレーゾーンなので、勿論タイトなアスレチックスーツなんて着ていない。今はTシャツにバーミューダ。
 
家の近くの公園で足の屈伸をして、国立図書館のテラスまでは歩き(舗装路は膝に悪い)、木の板のテラスを走って、これまた木の板の歩道橋でセーヌ川を渡り、対岸のベルシー公園を巡り、公園で肩に良い体操(?)をしてまた戻って来る。

同じコースでも景色が変わる。週末明けはテラスにゴミが散らかっている(笑)** ホームレスの人はテントをたたんでベンチで寝ている。

ベルシー公園では、ツツジから、シャクナゲ、アジサイ、バラと、季節が瞬く間に過ぎ去った。
猛暑の今でも「盛り」なのは鳩と人間ぐらいか。


* 注:でも早朝に行くとベルシー公園が閉まっていて馬鹿を見る。週末は9時開園なんて走り出して初めて知った。(平日は8時から)

** 注:夕涼みにテラスの階段に座って飲み食いした跡です。




2018年8月1日水曜日

81歳のバイタリティー

先日アジア美術のギメ美術館のへ地図に関する企画展(Le Monde vu d’Asie)を見に行った。これは地図の概念が曼荼羅などの宇宙観図から浮世絵師が想像したパリ風景など拡大解釈されすぎていて、「普通の地図」の色々が見たかった私にはもう一つ。

少し常設展でも見て帰るかと入り口に戻ったところ、Kim Chong-hakという韓国人作家が展示しているとあった。ポスターでは面白そうになかったのだが、最上階のロトンドという円屋根の特殊な空間なので、どんな風に使っているのかなと思って上がっみた。

それが展示方式は全く工夫なしで巨大サイズの絵が立ててあっただけ。だがきわめて「ヤンチャ」に描かれた、花や虫がひしめき蠢く極彩色のその大絵画はとても生き生きとしていて、「田舎の村での自然の目眩き繁茂はこんなだったなァ」と思わず8年前の韓国へ夏のレジデンスに行ったときの暑さと湿度感が身体に蘇った * 。


これでも左が欠けている
詳細

韓国のバッド・ペインティング(美術用語)? 若い作家かもと思ったら、1937年生の81歳の長老で、絵の裏側にあったビデオの彼は大きなキャンバスを床に敷いて、その上を歩きながら絵の具をふんだんに盛り込んでぐいぐい描いていた。

韓国では超有名らしい。ネットで調べてみたら日本でも小山登美夫ギャラリーで紹介されていたから知られているかも。
まあそのお陰で話が早くなる。以下結構詳しく書かれた同ギャラリーのページを参考にさせてもらうと:

名前はキム・チョンハク。

ダイナミックな具象画に至ったのは50歳近くで、作家曰く「1970年代から80年代までの韓国の画家達は、厳格な抽象絵画を追求し、主題は政治的、社会的であるべきだと信じていた。そんな中、彼は時代に逆行して具象絵画に立ち戻り自然を描き始め、アートに対する燃え上がる情熱を取り戻した」。そして「私の作品は抽象絵画をベースにした『新しい具象画』」であり「韓国の伝統的美から引用し、そこに西洋の現代美術の知識を加え、それらを混ぜ合わせたもの」との自身を定義している。

彼は韓国の古美術の蒐集家でもあり、上の引用のように伝統的モチーフからインスピレーションを得ているとのことで**、2階の韓国美術コーナーでは彼のコレクションの家具と自分の絵を一緒に並べている。それらが「対話」しているというほどしっくりているとは思えなかったが、ロトントの「夏」とは違った、冬枯れした野原など、また違う持ち味の絵が飾られていた。
韓国では「四季の画家」と言われているらしい。「冬枯れ」でも勢いがある。

2階の展示


右の瓜類とヒマワリなどのは絵画の一部です。

展覧会は10月1日まで 



参考

ギメ美術館のキム・チョンハク展に関するページはこちら(仏語)

キム・チョンハクさん自身のオフィシャルサイトはこちら(英語)

補足
 
* フランスの自然になれてしまうと日本や韓国の夏の緑の周密さは驚嘆に値します

** だから勿論日本画的なところもある


今日はなんで気に入ったかもう一つ分からないので一杯写真を貼付けました。 私は肩の不調だけで今夏は制作を断念しているので、81歳でのこの元気さに圧倒されたか? 私は絵を描くことはストレスでもあると思う(なかなか満足しないから)。「制作中止」はストレス抜きにとも思っているのだが、「描かないと気楽、でも寂しい」。今のキム・チョンハクさんはストレスなさそう。多分この辺が問題かな?

ついでに最後は「地図展」の方の江戸時代の日本地図。シュールでいいねー。