2018年1月30日火曜日

ソフィーのちょっと良い話

彼の知性に私はひるんでいた。彼は一緒にランチを食べようと提案した。それを想像する喜びは、不安、自分はそのレベルではないという心配を一層大きくさせた。心構えができるよう私は「何について話しましょうか」と彼に尋ねた。こうすれば馬鹿げて無駄であると知りつつも心が静められる。唐突にDはテーマを決めた。「朝何に起こされますか?」 一週間何度も検討しては沢山の答えを考えた。その日が来て、彼に同じ質問を早々と問い返したところ、彼は「コーヒーの匂い」と答え、そして私たちは話題を変えた。食事の最後にコーヒー、私は記念にコーヒカップを欲しいと思った。

引用が長くなったが、これは「コーヒカップ」という作品(インスタレーション?)の文章部分(写真)。
ちょっと長かったので次は短い「沈黙」

母はブリストルホテルの前を通るたびに立ち止まり、十字を切り、私たちを黙らせ、「静かに、ここで私が処女を失ったの」と彼女は言った

世界で現在最も名の知られていると言われるフランス人アーティスト、Sophie Calle (ソフィ・カルと日本では呼ばれるそうだが私は古風にソフィーで行きます)のこういう文章がキッチュな額に入れられてパリのマレ地区にある動物の剥製や猟銃などが並ぶ「まさに古式な博物館」と言う趣の「狩猟自然博物館」に二階の展示場に点在している。

こんなにわざわざ翻訳して引用すると熱心なファンかと思われるかもしれないが、私は彼女の作品が大の苦手。だって「読んでばっかり」で、、、。私は読むのが遅いからフランス人の友達なんかと行ったら速く読もうと焦るばかりで全然楽しめない。
では一人でマイペースにゆっくりすると、どうなのか? やっぱり「読んでばっかり」で、、、視覚的に何か残っているかな〜? 

今回はそれでも博物館の常設展示と彼女のお友達である招待作家 Serena Carone(セレナ・カローヌ)の彫刻に助けられ、二階の展示場の文章はすべて読破した!(実は一階では団体がいてガイドがうるさかったので二階から見出した) 博物館という場所柄か(?)「ちょっと良い話」という感じの文章が多かったが、私生活とフィクションを取り混ぜた叙述は最初は楽しいが、何十というテキストを読んでいくと彼女の感傷吐露に私はうんざりして「全然そんなこと知りたくもない!」と私は叫びたくなる。
「それが現代アート!」といわれればそれまでのことだが。

彼女の文章は訳してみてわかったけれど、「訳し難い」。というのは文章がこなれていて、ちょっとほくそ笑ませたり、ちょっと胸キュンだったり、ちょっとゲロだったり、それを伝えようと思うと逐語訳では済まず、真面目にやれば多分大変な仕事になる(私の訳はあくまでも皆様の理解の為の単なる参考にすぎません)。

ソフィーさんのお父さんは著名な心臓科医で目利きの美術蒐集家、ソフィーは彼に最初に作品を見せていたのだが、2015年に彼が亡くなった後アイデア喪失に陥った。そんなとき「魚屋でアイデアを釣ろう」という宣伝を見て彼女は馴染みの魚屋に聴きに行ったところ鮭を勧められた(と黒板に書いてある:右写真)。このエピソードが今回の展覧会のキャッチになっていると思うのだが、そのビデオ作品を見ると魚屋さんは鮭の皮は彫刻に使えるかもと言ってるぐらいで、「それなら鮭買いな」なんていう「飛んだ会話」ではなかったのでがっかりした。やっぱりソフィーさん、脚色上手いんだよな(笑)。

この他、一階の現代的展示スペースは、病床での最後の言葉を綴った父を悼む作品をはじめ、「死」がメインテーマ、三階は雑誌の出会い欄のコメントを使った写真と文章の組み合わせの「恋人狩り」の作品で、両階ともごちゃごちゃとした(その分遊びのある)キャビネ・ドゥ・キュリオジテ的展示の二階とは違ってもっと純然たる彼女の作品が並んでいる。

彼女の切ない思いが作品に表現されたお父さんに対し、上の「沈黙」(実話かどうか知らないが)が示すようにお母さん(既に亡くなっている)もそうとうなもので、最近私が評価を高めている大衆紙のパリジェンの美術案内によれば、ニューヨークのMoMAのソフィー展のオープニングに同行したお母さんは「あんた上手く皆を騙したわね」と言って大笑いしたそうである。

この父母にしてこの子あり

彼女は子供がないので「これでピリオド」とかいう文章もあった。ちゃんと引用したいけどその為にはまた足を運ばねばならない。つまり上に訳した文章は私が好きで選んだのではなく、サイトで探したのだがテキストでは見つからず、文まで読める精度の写真が2、3しかなかったのでこの選択となった。

この展覧会は2月11日まで。博物館には他の現代作家の作品もあってそれ自体面白いところではあるのだが、会期最後は混むだろうのでソフィーのフランス語が読めない人は今行くことないだろう。


今探したもっとマトモな美術的評論を読みたい人への参考」

・2015年にソフィ・カルの展覧会をした豊田市美術館の学芸員の方がこのパリの展覧会に関して書いたキューレーターズノート(但し写真にある「鮭の皮」の作品も涙する像もセレーナ・カローヌの作品です)

・ソフィのファンはうんざりせずにこう評価するのかと感心させられたartscapeの記事

2018年1月15日月曜日

工事人、嘘つかない?

現在開催中のサンドニのHCEギャラリーのグループ展。左が私の「雨の絵」

今日は午後からアトリエの窓に叩き付けるような風雨。折角グループ展で雨の絵を展示し、前回「黄金の雨」のことを投稿したしで、「腕を落とさない」為にも久しぶりに雨の絵をと思ったのだが、いつも使っていたベストの紙はなく(これは画材店からある日突然消えてなくなってしまった)、セカンドベストの紙をサイズに切ったが半固定様のテープがなく、まあこれはどうにかなるが、新しい絵の具のチューブを絞ってびっくり。硬くなった絵の具しか出て来ない。「秋の特売」で買ったのだけれど、勿論そんなことは想定外で領収書なんか捨ててしまっているし、地下鉄で画材店に往復する分損をする。もう「雨の絵はやめろ」との天の思し召しかと思っていたらアトリエ内で雨の音がポツポツと。窓のジョイントが甘くなったのか窓の下の張り出し部分に水滴が。まあ大したことはないのだが、近くの絵だけは外し、一応床にバケツ。

ところでこの私のアトリエ、例年より暖かいと言われるこの冬でも私は昨今文字通り「寒々」とした生活をしているのだが、それを知らない人は初めて来ると「広くて素敵なところじゃない」ときまって言う。それが年末に排水管の問題で来た配管修理工が入ってくるなり言った言葉は「あんたとこは狭いねー」。ええっと驚いたが、彼は隣のアトリエを知っていて、確かにそれに比べると60%ぐらいしかない。別に私本人、隣のアトリエの間取りより私のところの方が使いやすいと思っているので言わずもがななのだが、意外な「開口一番」に憮然として「お隣さんは映画の仕事しているから本当は広いアトリエなんか必要ないのに」とかこったところ「そうそう」と相づちを打たれ、、、修理工は何でも知ってるみたい。

修理工に褒められたデッサン
それから同時期にインターフォンの取り替えに全アパートを回っていた電気配線工は玄関の間に飾ってある、私自身も出来がいいと思っているデッサンを絶賛してくれた。彼の趣味は知らないが、他のアトリエも知ってる工事人、こういうことには正直そうなので喜こんでもいいだろう、多分(笑)。

アトリエでは大晦日に、恒例になった感もある大パーティー。その時はガラスで保護されていない海水デッサンは「お蔵入り」し、古い作品や「蒐集品」を飾るのだが、箱の中に残っていたガニーの個展用の蝶々の残りが見つかったので天井から吊るした。

短命に終わった我が家の正月展示
この内装で「1月中はくつろごう」と思っていたのだが、グループ展の作品選びも壁に飾った方が簡単だから取り外され、明日は見に来る知合いがいるのでまたちょっと模様替え。

こんな作品の入れ替えばかりしていると隣ぐらい広いほうがいいかなァーなんて思わないこともないけど、家賃も高いだろうし、ここで分相応。それどころか子供時代の二間しかなかった公団住宅や四畳半の下宿生活を思い返したら今は天国、雨漏りはあっても寒くても風神雷神にも「メルシー」と手を合わせて拝むばかり。


関連投稿

サンドニの画廊への出展は2度目で前回の投稿は
2016年4月10日 今度はサンドニ!

修理工に褒められたデッサンはイタリアのブサーノの廃墟と化した教会で、ひょっとしたら職業柄こういうの見ると工事したくなるのかも。これに関しては
2014年8月31日 ブサーナ

2018年1月10日水曜日

黄金の雨

「黄金の雨」 お正月らしく縁起の良い華やかな話題?と思う人は私のブログの熱心な読者にはおられないだろう。結論を先に言ってしまえば「フランス語は難しい」というお話。

私の「雨の絵」の中で雨粒を金色にした時期があるのだが(右写真、実際にはもっと青が暗い)、これを私は "Pluie dorée" と呼んでいた。doréは「金色の」という形容詞で何も疑問を抱いていなかったのだが、今朝何気なくpluie doréeをグーグルに入れてみたら意外なことに「彼女におしっこをかけて楽しむ(?)」という性行為がトップにずらりと並んだ。「貴男のコンピューターだからで私のPCではそんなもの出て来ませんよ」と言われるのが怖いが、、、実際そうなった。

作家の意思としては「雨」イコール「憂鬱」のような否定的イメージがあまりにも強すぎるので、「豊穣の雨」というイメージを作り出す為に華やかに下地を金色にしたのだったが、金色は青と同じく「私が真似している」としばしば誤解されるイブ・クラインの好きな色であるし*(余計誤解されそう)、それ以上に西欧絵画史上繰り返し描かれる、「黄金の雨」となってダナエの元に忍び込んだゼウスの神話の「大人気モチーフ」でもあるのだ(ウィキ)。ゼウスはダナエを孕ませたのだから「性行為」の方に近いのかなとも思いつつ、ゼウスの化身の「黄金の雨」はフランス語でどうか書かれているか見てみると pluie d'or で逐語的に「金・の・雨」。当然ながら「何とかの雨」というのは「何とか」が沢山降り注ぐ比喩的表現で、そう思うと降り注ぐのは「金」そのもの。改めてヨーロッパの名画を見ると、分かりやすい例として近代のクリムトの絵をここであげると(写真)、まるで「スロットマシーンでビンゴ!」とでもいうように金貨がザラザラ、お正月らしく景気よくなったが、そこだけみればポエティックでは全然ない!(クリムトは勿論見る人をそんなことには注目させない妖気溢れる絵を描いているので偉いのだが、、、。)

私は金貨でも金の破片でもおしっこでもないもっと違う漠然としたものを頭に描いていたので、どちらをタイトルに選ベよいものやら分からなくなったのだが一応「絵画史」に重きを置き20枚ばかりのシリーズのタイトルを書き直した。ちなみに英語だと形容詞利用、Golden rain で良いみたい。
しつこく辞書を調べたところ英語のgoldenには「(金の様に)貴重な」という意味はあるが、doréにはなく、表面的に光っているものという感じがする。実際特別待遇で天下りするとかの悪い表現で使われることも多い。

そもそも何故「黄金の雨」を引っ張り出してきたかというと、「天体」のテーマのグループ展に出展するのに、海水デッサンで墨が散って天空のようでもあるが、比較的具象的に「身体」が書かれている作品を提案したところ、そんな風に「天体」に「体(からだ)」をくっつけられるのは私が日本人だからではないかと驚かれ、、、(実際にはフランス語の天体なる語 corps céleste は「天の」(形容詞)+「体」で、漢字表現は直訳なのだが)という話が枕にあるのだが、それにまとわる解釈談、および私の失敗談を加えると長くなりすぎるのでこのへんで。(かつ「黄金の雨」は展示品ではなくて余計複雑になる)

フランス人のインテリは「意味するもの」と「意味されるもの」を云々するが、異邦人の私にはもうひとつ「意味したいもの」というのが入ってきて、、、もうギャップだらけです。(但し母国語の日本語でもそうだと思う)


* 参考記事 イヴ・クラインと私