2022年1月29日土曜日

ちょっと変わったピカソ展

Sujet principal : Exposition "Picasso l'étranger" au Musée de l'Imigration

今度はバゼリッツかなという予定が、前回のドラ・マールの恋人で、前々回投稿の仏共産党の党員にもなったピカソへ!

開かれているのはパリの東ヴァンセンヌの森の入り口の「移民博物館」*。だからただのピカソ展ではない。冒頭のプレゼは次の通り:

これがピカソの警察書類で40年間で150万件の調査に及ぶ量になる
「彼がフランス人になることはなかったということを知る人は少ない。1940年4月3日帰化を申請したが拒否され、新たに申請することはなかった。

実は1901年に早くも、ピカソは「監視下の無政府主義者」として警察に登録され、40年間、彼は外国人、左翼、前衛芸術家として疑惑の目で見られることになる。1949年まで彼の作品はアメリカなどでは賞賛されていたが、フランスのコレクションにはわずか2点しかなかった。しかし、彼は独特の政治感覚により、旧態依然の制度のフランスを巧みに渡り、芸術より工芸、首都より地方を選び、南仏に居を構えた。

彼の裏にあった不安定な生活、彼の生涯の障害を発見することは、私たちの国(フランス)そして我々自身の見たくない側面を映し出すのではないだろうか?」

 

そして第一章はピカソのフランス到着(以下も説明パネルから大幅引用)

1900年:1回目の旅行-万国博覧会

19歳にならんとしたピカソは友人のカサジェマス(Carles Casagemas)の案内で、ピカソはパリのカタロニア人のコミュニティーの一員となった。動く歩道、電灯、最初の地下鉄など、超近代的な大都市に魅了され、美術館や画廊を熱心に探索した。

1901年:第2回旅行-ヴォラール画廊展

ヴォラール画廊での展覧会を企画したマニャック(Pere Mañach)の招きでバルセロナから再来したピカソは、クリシー大通りのマニャック邸に滞在することになる。 彼はここで記録的な速さで、64点の作品を1ヶ月半の間に制作。激しい色彩から人物が浮かび上がるその絵は美術評論家のコキオに絶賛された。

と快調な出だしに見えるが、

その直後、ルキエ警視は、コキオの賞賛の文章を引用しながらも、モンマルトルの情報提供者の言を取り入れ、ピカソの絵のテーマを証拠として「ピカソは彼をかくまう同胞の思想に共感した」との最初の警察書類を作成、その結果、彼はアナキストとみなされることになり、それ以来40年間ピカソは、警察にその烙印を押されることになった。(警察に一度目をつけられると、、、「ああ無情」です)

しかし警視も歴史上に名前が残ってしまって大変だ(笑)

1902〜03年の3度目の滞在は放浪生活。この時期詩人のマックス・ジャコブと出会う。

1904年には「洗濯船」に居を構え、05年アポリネールと出会う。 

1906年はGosol **というピレネーのロバに乗って18キロの警察も絶対来ないという山村で2ヶ月間過ごしたが、この間にカタロニア・プリミティブ(中世宗教美術)に出会い、キュービズムへの道が開かれることになる。

これはGosol滞在時の素朴なスケッチ
 

とこの調子で書いていたらピカソの伝記なってしまいそうなので、ぱっと飛ばし時は1940年:

4月3日、ピカソはフランス帰化の申請をする。上院議員ポール・カトリや高級官僚アンリ・ロージェの強力にサポートがあり、警視部長の好意的な意見もあって、内閣も特別な配慮をしたこの請求は短期間で処理された。

その頃ピカソが、おそらくパリの外国人排斥的空気を避けて住んでいた大西洋岸のロワイヤン Royan。私も馴染みが少しあるがこのように華やかな感じはする。こんな明るい絵を描いたピカソですが、、、

ピカソには旅行の度にこういう警察発行の移動許可書が必要だった

現在はポンピドーセンターにあるコラージュ作品の「ミノトール」(28年作。多分私はピカソの中で一番好きかも)からサポーターである上院議員の夫人だったマリー・カトリは35年にオブッソン織のタペストリーを作らせ、アメリカ市場で大評判となった。
 

しかし審査結果(5月25日)は1901年の報告書の主張の一部を繰り返し、「この外国人は帰化する資格がない」、「国家的観点から非常に疑わしいと考えられる」とした。

説明パネルは「4月3日から5月25日に何があったのだろう?」と書くのみで終えているのだが、まさに第二次大戦勃発時、月日をウィキペディアで確かめて書くと:

ナチスドイツがポーランドに侵入をしたのが1939年9月でフランスはドイツに宣戦布告。40年の5月にドイツはフランスに侵攻。6月にはドイツ軍がパリに無血入城、講和条約でペタン内閣が誕生。

そんな時期である。かつその前にピカソは反フランコ反ナチの壁画ゲルニカを制作(37年)、そうでなくても洗濯船の時代からのコレクターのカーンワイラーもスタイン兄妹もこの時代嫌悪の目で見られていたユダヤ系で、彼の作品はナチスが「退廃芸術」とした代表例。国籍取得滑り込みセーフを狙ったとしても楽観的すぎたとしか私には思えないが、、、。

 

また飛んで1944年、6月に連合軍がノルマンディー上陸、8月にパリ解放。その10月に先に書いたように仏共産党の党員となり、平和の鳩のポスターも描いた。

戦後はご存知のように世界に知られる「天才ピカソ 」となり、フランス国籍など頼めばすぐに下りたはずだが、それをしなかったのはなぜだろう?戦時中は仏国籍があるということが身の安全の保障になり得たが、今更? スペイン(カタロニア)人としての自覚の方が強かった?  そう思うとシトロエンの自動車「ピカソ」なんてのは変なネーミングだなあ。

そんなこともひょっとしたら展覧会の最後のあたりにあったのかもしれないが、余りの盛り沢山の内容を見切れないうちに閉館時間となり、戦後編は見られませんでした:大した内容は残ってないと思うけど(笑)

ご存知ドラ・マールがモデルの「泣く女」。ゲルニカ制作当時の恋人かつ協力者でした。「泣く女」も沢山あるけどこれはなかなか秀作でないでしょうか

来年5月フランスの大統領選挙があるのですが、反外国人をあからさまに主張するような候補が何人もいて、かつ歴史を無視した嘘をついても人気があるという「おフランスどうしたの?」と泣くような状況がありまして、、、それもあってこれは一層素晴らしい展覧会なのです。
 
「異邦人ピカソ」展 2月13日まで >移民博物館サイト


注 

* ヴァンセンヌの森では1931年に植民地博が開催された。アフリカ、インドネシアなどの仏領植民地を一周するという趣向で、今ある動物園もこれに由来する。その博覧会のメインビル「植民地パレス」は、今の13区のアトリエに来る前に10年以上近くで暮らしていたので思い出深い場所。その頃は「アフリカ・オセアニア美術館」でよく行った)
 
** ググってみたらピレネー山地のスペイン側。私は1990年前後バルセロナに屡々行っていて、ピレネー山中のベルガ Bergaという町の Patumという「悪魔祭?」に連れて行ってもらったことがあるのだが、地図を見るとそこから遠くなかった。車で真っ暗な山をずーっと走り続けた末に村が忽然と現れて「別世界」に入ったような気がしたのを覚えている。絵画史に革命をもたらしたピカソのインスピレーションと比べる気はないが、私は火の粉が飛び交う過激な祭りに影響されて連作を作った。昨年秋にウダンの地下に展示した昔のフィエスタシリーズ(1991年)がそれ:いつもの我田引水的自己宣伝です(笑)
 
去年まで展示される機会のなかった91年のフィエスタシリーズ。やっぱりこれではピカソには負け負け


探したら「悪魔祭」のプリント写真が出てきた。他にもいろいろあるのでまた次回にでも:そもそもなぜ私が悪魔になっているか不思議でしょ?
 
 
 
悪魔にしてもらえて興奮した昔日のエイゾウ
悪魔は火の粉を散らす。これ多分私です
 
 

2022年1月24日月曜日

ドラ・マールのデッサン展

私とドラ・マール(Dora Maar)は言わずと知れた深い仲で、最近は他人と思えない(とはいえ性根のない私は本人が目の前に現れたら怖くて逃げ出すだろうが。相手は幽霊だし(笑))

全然何のことかわからない方は先ずこちらをお読みください:

さてドラ・マールのドローイング展が美術学校の正面の通りの画廊でやっているというので見に行った。ドラ・マールは1997年に亡くなり、翌年98年に家(パリとメネルブ)にあった作品群が競売にかけられた。もちろん旧仲のピカソの絵「泣く女」は当時にして十数億円で売れたが、彼女の作品は数千円で手に入ったらしい。今の相場はどうなのかな?ポンピドーセンターで展覧会(2018年)がされたし、美術業界はみんなグルだから「再評価」するに越したことはないが(冷笑)、やはり絵画よりシュールリアリズム時代の写真のほうが価値が断然高いだろう(グルでない私の芸術的評価は(も)そうです)。

それはさておき、画廊の紹介には"Dora Maar: Paysages"とあったので前述の去年3月の投稿の写真にあるような、南仏の山風ミストラルが吹き荒れる風景ばかりだろうと想像したのだが、野に咲く花とか、信仰に凝り固まった彼女のステンドグラス風のカラフルな礼拝日程表メモとか、「同じ屋根の下で暮らした私」にはかなり楽しめましたが、皆さんにはいかがでしょうかね? 


ちょっとシュールじゃないですか、この風景。オートマティズムのアンドレ・マッソン風


聖母子? あれに見えるは我が部屋から見えたモン・ヴァントゥか? ちょっとルイーズ・ブルジュア風


火曜に行った教会はどこだろう?
手書きカレンダー?

山道で見かけたような、、、
野生の百合だとか

ドローイングには98DMという競売者による小さな印が押されている。おそらく彼女のスケッチブックからバラバラにされたのではないだろうか?
 
Loeve&Co : 15 rue des beaux Arts にて2月26日まで 

ここまできたら同じ通りの11番地にある美術学校の卒業生が展示するスペース Galerie du CROUSも見てあげてくだい。今はSwann RonnéとEliot Andersonという若い作家 2人が今月末まで展示中(スワンくんが絵画でエリオットくんがインスタレーション)参考。ありきたりのものを使った結構私が好きなタイプです。こういう風に雑多な物(ここではゴミ採集から)を行き当たりばったり的に繋いでいくのって楽しいんだよね。
 
イメージ 1

そこからぶらぶらとセーヌ河を渡って地下鉄で帰ろうとしたら、アカデミー・フランセーズの前にドカーン!こんなのが立っていた。
 

 
バゼリッツじゃないかい? 今ポンピドーで回顧展みたいなの開催中。80年代から見飽きるほど見てるからどうでもいいかと思っていたけど、これは迫力、お見それしました! 次はバゼリッツ展かな?
 
この彫刻も昼間見るとまた違う感じだろうし、CROUS画廊の若者たちも昼の方が天井からの採光の方がいいといっていたからまた散歩に行きますかね。ところでCROUSとは学生寮とか学食とか、学生の厚生にかかわる国立行政組織で、あの画廊だって超一等地だからホテルにでもしたら儲かるよな〜と素人目にも思うが、それをしないところがおフランスの偉いところです。

2022年1月23日日曜日

ペノーネと過ごす「時」

前回はフランスで活躍していた画家の作品をどう紹介しようか困って諦めて簡単になったが、今回もまたまた簡単、というのは私もどきが説明する必要がないペノーネ (Giuseppe Penone)さんでして、カタカナで検索してみると、、、

私が以前書いたことのある庭園フェスティバルを開催するショーモン城 * のサイトに、彼のプロフィールおよび制作アプローチのしっかりとした日本語の記述があって 、これ以上足す言葉(知識)がありません:

https://domaine-chaumont.fr/ja/zi-ran-toyun-shu-nozhong-xin-di/akaibu/2016nian-atosizun/ziyuzetupepenone

知らなかったのだけどわが故郷の愛知県が誇る豊田市美術館が幾つも作品をコレクションしていて、その解説を見聞きして貰えばもうこれで全てガッテンでしょう:

https://www.museum.toyota.aichi.jp/collection/giuseppe-penone 

 

はいここで今回のミテラン国立図書館の展示風景の写真をつけて、これでおしまい。簡単に終わった〜(笑)

上の写真の奥にある、年輪から削り出されたかつての木の姿の作品

ペノーネはこのように天井の支柱の中に木を見いだした

林のフロッタージュ

小品も:皮膚(唇)に銀杏の葉

背景の緑のドットは指の跡。吊るされているのは手で握られた粘土

 

簡単すぎるので言わずもがなのことを書くと、ペノーネの作品のキーポイントは:

その1「触感(触覚)」:自分の手や体で粘土に型押した作品や木の幹のフロッタージュ、身体の転写など。元々ペノーネもメンバーだった60年代にイタリアのアルテ・ポーヴェラ**の運動は、具体的な行為や現実の「もの」を提示して既成の芸術に反旗を翻したのだった。

その2「時間」:我々人間の時間、植物の時間から鉱物の地質学的な時間に及ぶ。その時間が残した変化:木の年輪、大理石の縞、我々の宇宙(地球あるいは自然)を時間の形跡として読み取る。

指紋のグリグリは生成的にはどうなのかわからないが、写真の緑の絵画は彼の愛読書(?)***の表紙にアイデアを得たそうで本を持った人々の残した指の跡を想像したとのことでキーポイント1の「触覚」であると同様2の「時間」でもある。かつこれってCovidでなんでも洗い取ることになった「今」と対比すると興味深いですなぁ。確かに近代文明は「跡(自然のまたは自然な跡)」を消し去ることを良しとしていた。

かくして皮膚、指紋、樹皮、変化=形成される時間の形跡にこだわり作品を作り続けるペノーネ。結局基本は60年代からブレていなくて、「未発表のものが沢山ある」という展覧会の宣伝を真に受けると「本当に見たことなかったかな?」と少しがっかり。私には発見と言うよりキレイにまとめられた確認の展覧会でした。

未発表と言えば、アカシアの巨木を西洋ニワトコ(sureau)の葉で擦ってフロッタージュした最初の写真の作品はそれ。見えるかなー、絵の周りにペノーネがアート、自然観などを手書きでイタリア語で書き込んだ(句読点が一つもないとか)。これが一つの大きな本でタイトルは「思考と樹液」(Pensieri e linfa)、これが今回の展覧会の題名にもなっているが、何が書かれているかは??? そのうち豊田美術館で展示されたら和訳もサイトに載るでしょう(期待)

私にはやっぱり彼の作品の中で、木の角材から一つの年輪に沿って木を削り昔の姿を再現させた作品が常に一番印象的だ(2番目の写真)。「本当にそんなことできるの〜」と見る度に思う。すごい綿密で時間のかかる作業だと思うのに、世界中に作品幾つもあるし、、、不思議不思議。→豊田美術館での「12mの木」

これはまさに次のペノーネのお言葉通りです:

「目の前にある物が論理的な理解を越え、驚き、感動、信じられないという感覚の領域に場を譲る。この次元が最重要なのだ。時代を生き残った芸術作品のすべてはこの感動を生み起こす力を持っている」

 

Bravo!

 

あれー、結局沢山書いてしまった(時間もかかった〜苦笑)

*** 注 "Leafs of Glass" Walt Whitman :19世紀のアメリカの詩人だそうで、キーファーのツェランと同じく私知りません(悲)英文wiki 

 

こちらが会場の国立図書館のサイト

https://www.bnf.fr/fr/agenda/giuseppe-penone-seve-et-pensee 

29日までだと思っていたらおお〜、今日で終わり。ちゃんとカレンダーに大きく書いておいてよかった♫ 

 
参考投稿
 
* ショーモン城(時代順)
2020年7月城の生活
 
** アルテ・ポーヴェラ


2022年1月22日土曜日

共産党本部での大展覧会

Sujet : Une grande exposition très intéressante qui a lieu au siège du PCF actuellement. C'est surtout pour ceux qui connaissent la scène de peinture française après guerre.
 
正月早々オミクロンに捕まり禁固刑となっていたが、釈放の身となっていろいろ展覧会などを見た(実は正月休みが終わって空いてから見に行く目算だったのがスタート遅れ)。
 
その中の、これは実は偶然知ったのだが、パリの仏共産党本部で開催されている下のリンクの展覧会は戦後のフランス絵画史をおさらいした感じで面白かった。だからブログで紹介と思ったのだが、これが難しい。主に70年代ぐらいに有名だった作家が多く、かつの彼らの典型的なスタイルでない(その前の)作品が多くてなかなか興味深いのだが、ちょっとググって明らかになったのは彼ら、フランスでは有名だが日本では??? 私は彼らのファンでもないのでちゃんとした紹介なんてめんどくさくてしませんが、、、
 
例えばジャック・モノリ (Jacques Monory)、青単色あるいは青と赤がベースで探偵映画の一場面のような絵を冷たいリアルなタッチ描く(こんな風)。出展されたこれもそうなのだが場面性が薄くてちょっと変わっている。

 
 
例えばエドゥアールアロヨ (Edouard Arroyo)、スペイン生まれの彼はカラフルでデザイン化された人物像でアイロニーな世界を描く(こんな風)。出展されたフランコの圧政を批判した(のであろう)これはずっとタッチが荒々しい。
 
 
 
 
作家の知られたスタイルともっとかけ離れている場合もあり、知っている人には見応えがあるのだが、、、。 先に書いたように日本の方には何の参考にもならないのは承知も承知。だが、あれだけの規模の展覧会で11月末から開かれているのにもかかわらず全然取り沙汰されていないってのは他人の事とは思えない(笑)ので余計なお世話、もう最後の数日(1月29日まで)を残すだけですが紹介します。
 
 
作家より断然知られているのは共産党のために本部を設計してあげたオスカー・ニーマイヤー(Oscar Niemeyer):ブラジルの首都都市ブラジリアとか国連ビルとかを作った建築家。こちらはカタカナでどんどんググれますのでそちらにお任せ。(日本語ウィキ)
曲線好きのニーマイヤー、展覧会会場の床も起伏してます。いつも自由に入れるわけではないのでそれだけでも見学の価値あり。展覧会入場無料です
 
これが本部外観(フランスの日本語情報誌オブニから写真転載)。展覧会場は地下ホール

ブラジルを逃れてフランスに住んだニーメイヤーは党員でもあった。ピカソを始め戦中戦後のアーティストはそういう例
(党員でなくても支持者)が多いのでフランス共産党は立派なコレクションを構築したようだ(今回の展示の大部分は党のコレクション)

2022年1月13日木曜日

足学第二章

いつも引き篭もりがちな私なので自己隔離が1日や2日伸びてもどうということがないといえばなかったのだが、もう出て良いのかどうか気にしたのは「足学」の先生(治療士)とのアポイントがあったから。一年半前に「足学の美女」を見染めた話を覚えてられるだろうか?(覚えてるはずないですよね(笑)「足学」もなんのことかでしょ?これ読んでください>足学の美女とコロナ

その美人先生(治療士)に処方してもらった爪の菌への塗り薬も結局ほとんど効果がなく、その後も急を要することではないから南仏に行ったりしてまた放ったらかしになっていたのだが、7月にちゃんと治療する気になって皮膚科のアポイントメントを取った。その診断を受けたのが9月で、かの美人先生が言ったように、その後ラボで菌の採取検査(大病院の菌類専科ラボ)。その結果が出るのに1ヶ月もかかり、その後また皮膚科の先生に会い、やっと治療の第一段階に:これがまた3週間。第二段階に移る前に傷んでいる部分を切り取りなさいとのことで(やっぱり皮膚科の先生はそんなことはしない)、「おお〜、なんと再会の運びに!」となったのだが、あれれれれ美人先生、医院閉じちゃっていて〜(悲)。

後任に新たな若い女性が入ったようだが、「せをはやみ〜♪」ですから別の女性には眼もくれず、正反対の方向の中国名の治療士を予約した。このアポが火曜日だったわけ。これもキャンセルするとまた1週間は遅れるし、第一段階の治療薬はもうなくなっていて、、、つまりちゃんと計画的にアポを12月から入れていた訳でした*

その30代の若い男性治療士さん、随分感じがよくて(リクライニングの椅子で足を伸ばしているのでコロナ的にも十分なディスタンスで)世間話。両親は中国カンボジアとラオス出身で、つまり難民、2人が出会ったのはここパリでなどなどと聞いてるうちに爪の半分以上が切り取られ、ついでにガサガサに硬くなった踵の皮膚まで削り取ってくれて、スベスベ、とても気持ちが良い!靴下の中で足が滑りそう。やっぱり皮膚はツルツルが一番、女性が一生懸命美容ケアに専念する気持ちが少しはわかった気がする。

結局美人先生よりこちらに軍配。まあ何にせよ人の足の世話しようなんてよっぽど世話好き及び謙虚な人でしかできないよなと思うのでした。

 

* 毎日せねばならない面倒な治療は1月中にと計画的に思っていたのは名古屋での個展が2月に再延期されていたためもあったのだが、結局オミクロンで将来が読めないので中止しました。

写真は内容と関係なし。単に火曜日に描いた海水ドローイング

 

2022年1月11日火曜日

Version française et plus (私の空論:今日は日本語は下の方です)

J'ai écrit en japonais hier : j'ai eu des symptômes le jour de l'an, le 2 j'ai été testé positif. Les symptômes ont diminué assez vite. Comme j'avais envie d'être libéré plus tôt, j'ai passé un nouveau test PCR le vendredi. 

Le résultat ne m'est parvenu que le dimanche après-midi, j'ai été positif encore. Cela m'as rendu perplexe. Le lundi (donc hier) j'ai téléphoné mon médecin pour savoir si je peux sortir ou pas. 

Je suis libéré ! En fin de compte, cela ne sert à rien de faire un test PCR au 5ème jour, comme le résultat n'est pas immédiat. De plus, dans la situation actuelle, cela ne contribue qu'à l'embouteillage de tests !

Par ailleurs je reçois encore toujours des messages quotidiens de L'Agence de Santé qui me demandent de remplir un questionnaire pour m'assurer que je suis bien en quarantaine...

En décembre, avant le débarquement de l'Omicron au Japon, le nombre de nouvelles contaminations de là ne s'élevait qu'une centaine personnes par jour, ce qui me semblait trop mystérieux, car le Japon n'a pas pratiqué des mesures contre le corona plus efficace que d'autres pays. C'est pourquoi j'ai imaginé cette hypothèse suivante :

Il y a environ 20 millions d' ans, le Japon s'est séparé du continent pour devenir l'archipel et les espèces y ont commencé à évoluer à la manière assez indépendante. À un moment donné, un virus similaire au Covid 19 a balayé l'archipel, tuant de nombreuses habitants, ne laissant survivre que ceux dont l'ADN résistant au virus. C'est totalement infondée scientifiquement. Par contre j'ai entendu parler un scientifique de l'Institut Pasteur expliquer que les personnes qui ont une certaine partie d'ADN héritée des Néandertaliens sont plus sensibles au Covid. Je me suis dis pourquoi pas, j'ai probablement une certaine protection génétique :)  Mon hypothèse s'est effondré, ou mon ADN ne résistait pas à Omicron. Soyez prudents mes compatriotes! 

(note: il y a de 5 à 6000 nouveaux cas par jour maintenant au Japon)


オミクロン上陸前の12月、日本での新感染者数は多くて日に百数十人とかで、まったくこちらの状況と比べると狐に摘まれたよう。日本が世界に誇るようなコロナ対策を打っているようには到底思えないので私はこんなことを考えた。

昔々今から2000万年ほど前のこと、日本は大陸から分離しガラパゴス的進化をしだした。その後のある時期コヴィッド19に似たウィルスが日本列島で大流行、多くの人が死にそのウィルスへの抵抗力があるDNAのあった人が生き残り、今でも日本人の多くはそれを持っているので罹りにくい。私の場合全く根拠のない空論だが、パスツール研究所の学者がネアンデルタールから受け継いだなんとか番のDNA部分のある人がある人がコヴィッドにかかりやすいという話をしていたので、私も多分遺伝子的に守られてるのではないかな〜と。まあこれで油断があったかな〜? ともかく仮説瓦壊、少なくともオミクロンには歯が立たないのでみなさまお気をつけください。 

隔離が解けた今も保健局から「ちゃんと隔離しているかアンケートに答えなさい」というメッセージが毎日来るのだけどどうすればいいのかねー?

今や3度のワクチンに1度の感染、鬼に金棒万全の防御なんて安心すると。。。

 

2022年1月10日月曜日

謹賀新年、今年もポジティブに〜

 
「謹賀新年、今年もポジティブに〜♪」なんてのが冗談にならない。私陽性なんです😕

元旦の朝(というか昼過ぎ:大晦日の夜、当てにしていた地下鉄の線が止まっていて満員の「深夜バス」に乗らされて遅くなった)喉が痛くて少し熱がある(38度)。1日寝ても変わらないので2日の昼にテストを受けに行ったら見事大当たり。「おいおいあの深夜バスで〜?」とも思ったがいくら感染率の高いオミクロンでも電光石火ってのは考えにくい。それよりも発病2日前(無症状状態)からしっかり感染力があるらしく、30、31日に会った人に報告。大晦日のパーティーは参加者全員が試験していたのだが(私も31日は陰性:ただし薬局で買える自己試験)、2日後には会食者の四人が発病したことがわかり、、、自分の病状よりこちらの方が心配になる。というのもその頃には私の症状はすでに快方に向かっており、1週間の籠城のためせっせと食料品などをスーパーに配達注文(生まれて初めてだったけど水とかトイレットペーパーとか、嵩張るもの重いものをオーダーすると便利なんだなーと痛感)。それから「陽性」だと色々な調査に答えなきゃならなくて。本当に息も絶え絶えならば絶対できない、まさに保健局のためにデータインプットのお勤め。右はそれでもらった「隔離週間」のシェーマ(これが唯一もらった「役立つ情報」)。発病から7日間の隔離で解放されるのだが、5日目にその2日前から症状がなくテスト陰性なら釈放されるということなので7日の金曜日にテストを受けたのだが、これがよくなかった。今回は正確を期してPCRにしたので時間がかかる*:結局結果が来たのが48時間後の日曜の午後。そしてまた陽性! これには困った。「長期コヴィッド」になった? シェーマによれば5日目の試験が陽性でも7日で釈放されるのだが 、「もう外出して良いのか〜?」 取り扱ったラボが1度目と違うので、また異なるサイトから「アンケートに答えてこのアプリを入れなさい」とかのメッセージが来て、振出しに戻った雰囲気。

こういう場合インターネットは助かる。検索すると大手地方新聞が(もちろんお医者さんが)「10日目にテストしてまた陽性だった」という人の質問に、「PCRテストは感度が高いので被試験者がもう感染力がなくなっていてもトレースを検知してしまう」* と答えていた。少し安心。そして今日念のため主治医に電話したら「2度目の試験なんてどうでもいいから、外出結構」とかなりざっくばらんな表現で言われ、、、患者としてはもう少し丁寧に説明して欲しいと思うのだけど、向こうも忙しいかもしれないし、しょうがないか(今日新年初の開院のはず)。

食料も底をついていたので大きなスーパーに行ったら、もちろん人の少ない時間帯を狙ったが、通常より文字通り随分「静か」な気がした。日本の便りで「黙食」という言葉をみて笑ってしまったが(パリのレストランでは絶対あり得ない。そういえば30日にレストランで友達ばかりがシェフともサーバーとも話したな〜。う〜む)オミクロンの脅威でみなさん「黙買」?

このように今年の正月は幸先悪く、本当に去年のピレネー雪山の元旦とはえらい違いで。。。かつ年末から陰気してたからなー。陽性(今でも PCRテストすればおそらく)で陰を陽に、しっかりポジティブにしたいです。

 

* 注:フランスでは年末年始毎日20万、30万の新感染者がでて驚きだったが、31日から6日まで1週間で950万の試験(抗体検査とPCR検査合計)がなされ、約5人に1人は陽性(6ヶ月以内に陽性だった人を除く:つまり私のケースはカウントされない)。しかしこの膨大な試験数が結果の通知を一層遅らせていることは明らかだから、2日早く解放されたいから試験するなんてのは避けさせた方がいい。無症状陽性の人を早く職場復帰させるための条項だったろうが、特にPCRテストをするのは結局害あっても利なしだと思うが。 

 

以上フランスのオミクロン事情を兼ねまして 。今年もよろしく


 ** source: https://www.lavoixdunord.fr/1123226/article/2022-01-05/combien-de-temps-peut-rester-positif-apres-avoir-eu-le-covid