2020年9月22日火曜日

難破船、その名はジンセンマル

前回予告のユー島で難破した日本船、その名はジンセンマル:多分「神泉丸」ではないかと思うけど、インターネットで全くひっかかってこないので確証なし) 

 以下、右写真のようにトランシュ岬(上のパノラマ写真の奥の冠型の岩の辺り)の近くの石に貼り付けてあった解説パネルにあったお話です:

1895年にイギリスで建造された蒸気船ムガール号(SS Mogul)は110mの長さの貨物船で、1904年に日本郵船会社に商船として買われ、ジンセン丸と新たに命名され、基地を大阪に置いた。

第一次世界大戦中、日本は米国の連盟国で、ジンセン丸は戦時協力。1918年11月9日米国から5000トンの軍事品を積んでウェールズに向かって出航。弾薬、救急車、部隊輸送用トラックを運んだ。軍事船への変換は簡単なもので、後部に105ミリのキャノン砲を備え、船員は5人のアメリカ兵で補強された。こうして1918年12月2日、15船団でウェールズからボルドーに向かい出発した。

12月3日ユー島沖で船は激しい嵐に襲われる。悪いことには機械室で故障も勃発。漂流しトランシュ岬の西のトンヌ列岩(?)で座礁。悪天候のため船での救援は不可能だったが、島民のフレデリック・ベルナールは150メートルのロープを岸からジンセン丸へ渡すことに成功、3時間に満たない間にこの巧みな方法により57名の船員が救助された。フレデリック・ベルナールと日本人船長は最後に船を後にするが、その後すぐに船は波に飲まれ沈没。 フレデリック・ベルナールはこの勇敢な行動により米国から勲章が授与される。戦後にこのような栄誉の例は68人を数えるしかなく、稀な栄誉であった。

ジンセン丸の歴史はこれで終わらない。米軍は船荷を回収しようと船を派遣。物資は港の学校の横に貯蔵されたが、それは弾薬、特に砲弾で、すべてが爆発。この事故で子供一人が失明し、記憶に残ることになる。かつ回収任務を継続した米船もジンセン丸の難破海上で爆発の犠牲になり、この新たな不幸の結果、回収計画は断念される。

船の残骸は岸から数百メートルの、海底10メートル未満のところにあり、その浅さと波のうねりがその状態に強く影響を与え、今日では完全に破壊され残存品が散らばっている。完全に口が開いたボイラー、スクリューシャフト、舵棒、スクリュー といった特徴的パーツにもかかわらず、船の規模を想像することは不可能。それとは反対に鉄板と海藻の堆積の中に砲弾や車輪が見られるのは稀ではない。

 

ベルナールさんがどうやってロープを渡したか、私にはもう一つ「?」、これがわかると「予告」どおり血湧き肉躍るお話になるのですが、、、。

これがパネルですのでご検討ください私の、もちろんアプリに助けられての仏語書下ろしはこちら

注:ユー島のサイトにpdfファイルもあるのだけど何故か微妙に違う。。。 


写真(左上)嵐、荒波で口が開けたボイラー
写真(右上):蒸気船ムガール号の名で1895年5月に進水
写真(右中):鉄板の下の砲弾
写真(右下)スクリューの上のダイバー


トルコのエルトゥールル号の遭難の事件(ウィキ)はトルコ人なら誰でも知っていてトルコに親日家が多い一つの理由になっているけど、ジンセン丸のことは日本では誰も知らないから、日本で「ユー島から来ました」と言ってもシラ〜でしょう。救助された生存者数ではあまりかわらないのだけどね〜。算数するといころ52名の日本人船員が救出されたのだから日本政府からもベルナールさんに勲章が与えられるべきたっだというのがユー島を愛する日本人(少なくとも3名)の一致した意見です

2020年9月16日水曜日

4度目のユー島

またユー島(Ile d'Yeu)へ行った。2016、17、19年に続きこれで4度目になる。

4度目ともなると大体の地形はわかっているし、主な名所は既に訪問済み。サイクリング、散歩、スケッチ、もちろん海水浴と以前の繰り返しをしているような気になったが、FBで「去年の投稿はこれこれ」とあからさまに示されるとその感は尚更なものとなる。まあフランス風バカンス(親切なKさんの「島の別荘」*に停留させていただいているので)なんてのはこういう代わり映えしないものなのかもしれない。とはいえこれはネガティブな意味では全くなく、ユー島は本当に風光明媚(というか私好みの荒涼感のある風景)で、4度目でもしっかり楽しめる。

今回は「1週間ばかり、最初の数日はぐずつくがその後数日は快晴」という予定(予報)ででかけたのだが、行った日から天気が良く、その後ずーっと好天続き。それで1日あと1日と滞在が延び、週末にナントの音楽フェスの出張版という催しもあり、これが終わり流石に2週間となって戻ろうとしたらパリは34ー35度の異常な暑さ、また本土ではコロナウィルスも元気旺盛で「もう帰れんわー」と思ったが、11月の2つのグループ展の会合があるし、作品もできていないしで、ずーっと海辺で寝ているわけにもいかない。いつ帰るかの予定もなくずるずるとホームステイをしていてはさすがのKさんにも愛想をつかされそうだしで、酷暑を避けるべく昨夜遅くコソコソと「花の都」に戻ってきた。

2017年の「遥かなるユー島」に書いたように、ユー島は一般人は大陸からフェリーでしか行けず、潮の緩慢のせいで運行時間が変わるので旅行日程を決めるのがのがなかなか悩ましい。かくしてコロナの蔓延する本土から隔離されている感があるためだろう**、それを追い風に人気赤丸上昇中、昨年の夏の人口2万5千人が3万5千人に跳ね上がったとか。島も「観光」に力を入れており、バスもきれいになったし町のロゴマークも格好よくなった。島の一番の名所は何と言っても岩壁の岸に建つ「古城」だが(16年の「ユー島紀行」参考)、そんな場所に城があったのは大西洋側は岩礁の海岸が続き、背水の陣で篭城ができるという地の利もあった(地元の漁師だけは船を操り食料・軍備補給が可能)。そんなわけで島に近づきすぎて座礁した船は数知れず、海岸ハイキングロードに座礁船の記念碑や説明パネルを建てるというちょっと変わった観光開発(笑)を促進。Kさん宅から遠くない私がよく行く岬の近くに今年は新しくお目見えしたパネルがあったのだが、これがびっくり日本船!

でも今日はここまで、次回はその日本人も知らぬ(ググってもでてこない)のその血湧き肉躍る座礁船のお話(笑)を紹介しようと思いますのでお楽しみに ♫


注: * ただしKさんは「コロナ蟄居」を島で過ごしたので、3月以来「別宅」が「本宅」になった感もある。羨ましいようにも思われるだろうが「島」のコロナ対策は厳しく、船もなくなり「鎖国」。かつ「禁足令」中は海岸地帯の散歩も御法度で警官(6人しかいないそうだが)が見張っていたとかで、、、Kさんはひたすら庭仕事に励んだそうです。
** 「鎖国」が開けたバカンスシーズンのユー島では8月6、7日に検査キャンペーンがなされ、995人がテストを受け5人が陽性だった。全員20〜25歳の若者でその3人は同じ家族だったとか。5人とも無症状だったがもちろん全員隔離されたsource
 

右写真はユー島の有名な「コロナ風物詩」となった、客との距離を魚獲りの網を使ってとる朝市の八百屋さん。

4度目ともなると絵葉書写真もあまりとらなくなってしまった。以前の投稿をご参考に

 
 
ユー島に関する以前の投稿

2016年9月2日金曜 ユー島紀行
2017年8月29日火曜 ユー島の海岸
2017年9月2日土曜 ユー島の海岸(続) 
2019年9月13日金曜 天国と地獄





vue vers la pointe des corbeaux (ile d'yeu)

Publiée par Eizo Sakata sur Mardi 8 septembre 2020