2021年4月10日土曜日

プロヴァンスのマチュピチュ

私の英語は名古屋弁だ。というのは例えば have をカタカナにすればハヴと言わずヒャヴと言ってしまう癖(? 少しは直ったと思うが)があって(地下鉄の駅の敷地と化した今はなき我が母校の千種台中学の英語教諭はそう発音していたと思うのだが)、それを大学(東京)に行って初めて「おかしい」と指摘された。その先生は仕方なく(?)理科系の学生に英語を教えていたのだが本当の専門は中南米の文化人類学で、その話になると力が入る。その先生のおかげでインカ文明にひかれ、その頃からずーっと是非一度はマチュピチュに行ってみたいと思うようになっていたのだ。だが最近は超観光化のルポなどを見てその気がそがれてしまっていたのだが、なんとプロヴァンスでこの夢を達成!(笑)

場所は Le Fort de Buoux (ヴウックスの砦)今や山中に孤立した遺跡だが、リュベロン山脈を南北に縦断する唯一の行路の要で町があり、山上にはそれを見張る要塞都市があって、その遺跡に辿り着くには山道を登り、砦の壁についたかと思うと長細く遺跡が連なっていてまだまだ登り最後は絶壁に至る。こうして私はマチュピチュ気分となり、ここを「プロヴァンスのマチュピチュ」と名付けることにした。もちろん私が勝手につけた呼称なので一般には通用しない。だがリュベロンには「プロヴァンスのコロラド」と呼ばれる場所があり、赤・黄・橙の岩壁があり綺麗なのだが「本家」の超々ミニアチュア版で、宣伝文句を信じていくと拍子抜けする。それを考慮するとここをマチュピチュと言っても差し支えなかろうと勝手に「本家」を知らぬ私は思うのである。

さてこの城砦遺跡は今やピーター・メイルの平和な田舎となったリュベロンが16世紀は戦いが絶えなかったのを教えてくれる。

某サイトによると(DeepLで自動翻訳して加筆修正):

「攻めろ」っと命令される兵士でなくてよかった
1530年以降、リュベロン地方で行われたVaudoiseと呼ばれる人々への残忍な弾圧は、16世紀後半を彩った宗教戦争を予感させるものだった。前世紀に荒廃した村々に、土地の再利用を望む地元の領主が呼びかけて、ピエモンテ地方から来て住み着いたVaudoiseの信仰は、その頃ヨーロッパで広まりつつあったプロテスタントに近いもので、1501年に異端とされ、1530年から地元当局によって組織された弾圧は残酷なものだった。リュベロン地方のいくつかの村は破壊され、住民は虐殺され、生き残った人々はガレー船に送られたり、移住を余儀なくされた。1540年の数都市(日本でも観光地として知られるルールマラン Lourmarin を含む)の虐殺は特に記録に残るものだ

 

私のいるメネルブも宗教戦争を繰り返したれっきとした城塞都市だ。結局1598年のナントの勅令まで完全な平和は戻らなかったようで、それを知ると「ナントの勅令」、高校の「世界史」で覚えさせられることはあるとこの歳になり実感。さて写真からその実感ぶりが伝わるだろううか?

注:fb経由の写真のマンホール状の穴は作物貯蔵庫で、岩盤が1m半ぐらいの深さまできれいに丸くくり抜かれている。保存のいいのは蓋までついていた。


Machu Pichu provençal !

Publiée par Eizo Sakata sur Samedi 10 avril 2021

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