フランス中央南部のロデス市に開館した、右写真のような黒一色の絵で有名なスーラージュPierre Soulages日本語ウィキ (旧ブログ2010年の記事でそれほど有名ではないのではと書いたが現存のフランス画家の作品では一番高い値がつくらしい)のオープンでは、「黒の中から希望の光が見える」「誤りは成功よりも重要。スーラージュ画伯もしばしば道を誤った。これは他の領域でも同じだ」などなど。ノルマンディー上陸70周年記念式典後の「エリザベス女王を迎えた大晩餐会」(英国王のスピーチはお父さんでしたね。女王は当時18歳でこの歴史を生きただだ一人の式典に参加した国家元首)では、「戦時の英政府のモットーは『Keep calm and carry on 冷静であれ、そして実行』だったが、これは私のモットーでもある」とか。ともに芸術、歴史とを自分の境遇になぞらえた「彼独特のユーモア?」らしいが、ともに放送で聴こえたのは拍手や大笑いではなく、失笑。何故公式の場所でこんなくだらない演説ができるのか? 私はフランスに来てミッテランをはじめ、多くの政治家の演説が立派で聞かせる、時には感動的なので、フランスの政治家は偉いと敬意を払っていたものだが(但し政策を実行するかどうかを別問題)、、、トッチャン坊やのこういう「威厳のなさ」を越えた演説(取り巻きにももう少し名文書ける人いないのかあ?)は、政治への信頼をますますなくさせるのではないかと、この「軽々しさ」を悲しく感じるのです。
解放時のカン |
流石の彼もノルマンディの式典では変な当てこすり?はせず、命を犠牲にした兵士と同じく、今まで顧みられることのなかった一般市民の犠牲者を讃える演説をした(カンCaenにその記念碑も建造された)。上陸作戦ではD-Day前からフランスが解放されるまで、連合軍はドイツ軍事基地は勿論、要となる都市を空爆し、約2万人の市民が亡くなった。空爆の激しさ、そして不正確さ(例えば上陸海岸の防護網を爆撃するはずが内陸部にずれて、死んだのは牛ばかりだった)は知られた事実、当時の仏国内のレジスタンスも「このままだと民意が離れる」からやめてほしいと要求していたほどだった。解放軍による犠牲ということで語り難いテーマであったが、「作戦的にも本当にそれが正当なものだったか?」という批判もある。だからこの件に関しては「3%のオランド君」も広い賛同が得られているようだ。でも私は疑問を感じる。演説では sacrifice, victime, heroという言葉が散りばめられていたが、同じ「戦争の犠牲」と言っても、まさに自らの命を進んで危険に冒す海外から来た兵士のsacrificeと、いくら空爆下で献身的に助け合ったとしても空爆被害者市民とは違う。慰霊碑は当然としても一般市民の英雄化には私は納得がいかない。勿論空爆は仏本土進行作戦の遂行を容易にするために行われた。だから「兵士の命は市民の命より尊いのか?」という疑問も呈されるのだが、「人を殺せなどと命令する国家など信じるものではない」と思っている平和主義者の私も、「44年のノルマンディーでは命の重さの天秤が違う」と思わざるえない。そればかりか私は空爆でほぼ壊滅的被害を受けたカンやサンローのドキュメントを見つつ、「解放軍の爆弾で死ぬぐらいなんて犬死、レジスタンスに入って敵に殺された方がましではないか」とテロルな確信をしたのだった。なんか非人道的と誤解を受けかねぬ結論になってしまったが、私をもそういう思想的窮地に追い込む戦争はいかにしても避けるべき:内戦になったらヤクザの様な連中が大手を振る社会になるのは過去も今も、何処の国でも同じなのは言わずと知れたこと。
ところで、こんな御恩を受けた国なのにフランスは「反米感情」が高いのはどうしてなんだろう? 米国にしてみれば「生意気な」と思うよな〜。レジスタンスはコミニストが多かったから終戦即に? ドイツ軍は東部戦線で大被害を被っていたから上陸作戦は戦局全体にに大きな影響はなかったという説もききましたが、、、この辺のところはまたの宿題にしましょう。
オランドのこともスーラージュも旧ブログに書いていたのに今開こうとしたら昨日付けで閉鎖になってしまっていた。移行処理をしたつもりですが、どうなりますか? なくなると本当に困る、私の備忘録の役割もしているので、、、(後記:一応移行に成功しました)
シアトルに住む友人の娘(7歳)はパリで産まれた(当時一家はパリが転勤先だった)ことが自慢の種。”パリ産まれ”というだけで周りの子供たちから羨ましがられるんだって。アメリカ人の片思いか、僻みか・・・
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