2021年10月5日火曜日

クリストの凱旋門

朝一にニュースラジオを聞くと役に立つことがある。先々週の日曜は「パリは No Car Day です」。びっくりして早速友達に電話をかけた。地方の展覧会に車で連れて行ってもらうのにわざわざ迎えにきてもらうことになっていたからだ。当然彼はそれを知らず、お陰でパリのゲートで足止めを食らうことなく済んだ。そしてこの日曜は「クリストの凱旋門のラッピングの最終日です」

朝から雨、風で斜めぶり。午後には上がるそうだが、まあどんなか想像つくし(実は私は1985年のパリ、ポン・ヌフのラッピングを見ている:その頃は近くのアトリエに通っていたのでほぼ毎日見ていた)行かなくてもいいかという感じだったのだが、日本のファンクラブ代表Mさんに「是非歴史的瞬間を目撃して記録を残して下さい^ ^(ブログ記事希望)」なんてメールもらって、「う〜ん」。あまり気乗りがしなかったのは天候以外の理由もあるのだが、それは後回しにして、、、* 

 フェースブックで色々な人が掲載する写真でもう見た気になっていたが、それらを参考にして「まあ行くなら夕方だろうな」と思いつつ、昼寝(最近過労気味で)をしたら夕方以外のオプションはなくなっていた(笑)

「日没は7時半過ぎ、夕日が当たるには凱旋門広場の一つ向こうの駅までメトロに行って」というプランニングで駅からシャンゼリゼの反対の大通りにでて、凱旋門を見ると、

 おお〜!!! 赤富士でも見るような雄大さあり、かつ布のひだは夕暮れの光に微妙にゆらぐ影を醸し、、、スレっかしの私の心もなんと一挙に高揚ときめきました(笑)

凱旋門は形がシンプルだからラッピングもシンプルで、50mの高さからストっと布の落ちる感じが清々しい。それにぐるっと簡単に回れるロケーションも良いな〜(さすがパリと少々見直す)。と思いつつ回っているうちに日が暮れて、急にライティングがついた時の群衆のどよめき、そして「メルシー、クリスト」のコールと拍手が起きた。後述するような批判も聞いたが、なんだかんだと言ってこれだけ人を集めて(思ったほどの人出ではなかったが、メディアによると総数80万人が訪れた)一部に感動の声を上げさせるのは半端じゃない。




 説明員(?)と少し話したら四角い端切れをくれた(こんな憎いサービスはクリスト企画、場数を踏んだだけのことはある。 85年には説明員はいても布地はもらわなかった)。ご覧のように実物で見るよりシルバーでピカピカ、つまり本物は汚れていた?(笑)というより空の色を映していたのだろう。裏側が青いのは〜?、多分これが視覚に仕掛けた隠し味なのかもなーと想像。つまり写真ではわからないスケール感のみならずその時その場で現物を見ないとわからない空気の漂い、臨場感がある。ランドアートの面目躍如たるものがあった** 

 

 
 

* 以降長くなるが先述のあまり気乗りがしなかった理由:

その一つは1回目と2回目のロックダウンの間にポンピドーセンターで「クリストとジャン=クロード展」てのがあったが 、作品のほとんどはパリの美術館の常設で見られるもの、あとはポンヌフで使われたロープ、布などの機材とかで全然面白くなくて、その中でフルっていたのがエディト・ピアフの「バラ色の人生」で始まり、ジャン=クロードとのラブエピソードが散りばめられた「何だこれっ」って思ってしまう「パリのクリスト」という映画。これはポンヌフのラッピングに至る前の経過のドキュメントなのだが、見た後の感想(面白いのでほぼ1時間のをちゃんと見た)は、クリストの最高の手腕はジャン=クロードをせしめたことではないか? 何たってジャン=クロードの義父は元軍人で高等技術学院の校長で政治・経済界にもすごく顔が利き、ジャン=クロードと結婚していなかったらシラク(当時パリ市長)と面談とか、シラクがダメだからジャック・ラング(当時文化大臣)に助けを求めるなんてことはあり得なかったのでは? 下種の勘繰り、クリストを直に知っているというアーティストのSさんに打診したところ「純愛だったらしいよ」って答えで「ほんとかよ〜!」(失笑) まあ真偽はともかくクリストは政治経済界に太いパイプが引け、ジャン=クロードは階級相応のブルジョワ生活では味わえない「芸術的アドヴェンチャー」に加担することになり二人とも幸せな人生を送ることになったのだ(実際彼女はそのため離婚した)。

ルーマニアから来た貧しきクリストがジャン=クロードの両親に出会ったのは肖像画家として。彼デッサン上手いからね。その得意のデッサンで企画案をドローイングして売り、ラッピング企画自体は自己資金で賄うという新しいアートの経済モデルを打ち立てた。今では経営者みたいな現代アーティストが多いがクリストはその元祖だ(これだけで美術史に残るかも)。この面をアピールしすぎたからかその批判もあって、クリストの凱旋門は自己融資で国民に資金負担はないというけれど、実際にはドローイングを買った企業はメセナとしての免税を受けるからその巨額な免税額を国が埋め合わせるためには結局その分は国(結局は国民)の負担となるというのだ。それはそうだがこれはクリストの責任というより企業メセナ免税制度が問題。私もいつも疑問に思っているのだが、このメセナ制度は当然買う作品が高額の時に効果がある。坂田英三の2000€のドローイングを買っても企業として免税したい額とは桁が違うからこの制度の利用する意味はない。つまり有名アーティストか有名画廊の推薦する作家の高額の作品しか問題にならず、これには値段が高ければ高いほど便利。こうして免税対策として買った作品は投機の対象にもなってまた利鞘を稼ぐ。これはどう見ても「金転がし」の専門家が作った濡れ手に粟のシステムなのだ(これは私見です:美術界に貢献しているからかここまではっきり弾劾した意見は聞いたことがないので)。

まあともかく私は全くの美術作家としての経営能力がないので感嘆するしかないのだが、先週ジャックマール・アンドレ美術館のボッティチェリ展(この種の展覧会ではルーブルであったダヴィンチ展(過去の投稿)のようにボッティチェリの同時代作家とかが半数以上占めることがよくあるのに対し、これは本当にボッティチェリ展だった!だから推薦します)を見たついでにシャンゼリゼから比較的近い画廊街を通ったらクリストのドローイングだらけになっていてその商売っ気にうんざりして、凱旋門まで足が向かなくなった。

 

** ランドアート的には、クリストの作品は「風景を変える」ということに重点を置いて説明されることが多く、それには私は「ふーん」という感じでほぼ関心がわかないのだが、「売り物」の企画ドローイングの美しさと、初期の小さな「モノ」の梱包作品から見ても、今回の凱旋門にしても彼は大いに審美的で、そういうコンセプトよりオブジェとしてのラップされた物体性(環境も入れて)、その魅力に興味があるのではと私は思う。

 

後記:クリストの凱旋門なんて私が書くほどのことはないほどググれば沢山出てきますねー:例えば美術手帖とかCasa Brutasとか。独断と偏見のない一般的なことを知りたい方はリンクをご参考に:私は「一般」に影響されないように当然この投稿を先に書いてから読みましたが、どう見たって私のブログの方が参考になると思うけどな〜(笑)

 

いつものとおり「こんなものにお金かけるよりもっと有用なことに使え」という人は常にいて、正しい側面もあるが、人パンのみに生きず+タデ食う虫は好き好きというのも真実。こういう人はロックダウン中アートがなくなって清々していたのかな? 

 

礼拝する回教徒にあらず。綺麗な写真を撮ろうと。。。

 
これは上述の純愛映画

 

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