2017年3月6日月曜日

パレ・ド・トーキョーのタロー・イズミ

前回書いたアンソニー・ドーア氏は私が知らなかっただけでとても有名な作家だったのだが、2/18に推薦したTaro Izumi(泉太郎)も調べてみると同様で、私が書くまでもなさそうだが、、、予告したのでPanと題されたパレ・ド・トーキョの展覧会を少し紹介。

最初にあるのはレンガの壁。毎日壁の一つのレンガをビデオで撮って、そのレンガ画像で壁ができている。時々レンガから顔が覗くのだが、、、プロジェクター二台だけでうまくできている。解説によると「展覧会に来た人を迎えるこの作品は物とその像との距離感への泉太郎の関心を明らかにしている」


次のホールにはスポーツ選手のプレーの体位を再現できるようにした彫刻と選手の写真と体位再現写真の組の作品が並ぶ。企画のジャン・ド・ロワジー(フランスの現代美術界に入りたい人は、この人のお友達になるといいですよ。勿論私は面識ありません)のお言葉を簡単に咀嚼すると「日常的に身体を支える道具である椅子とか台とかを使って選手の衝撃的アクションを真似する支えを創り出した作品は、スポーツの英雄である選手たちの肉体へのあこがれへのパロディであるとともに、彫刻の台の歴史への興味深い解釈でもある」 



これは「タトリンの塔」(1919-20)
ははは、彫刻の台ねー、本当かなあ。ロワジー氏のこの深ーい美術史的解釈はともかく彼の家具などを組み合わせた彫刻はなかなか良くできていて、ロシア構成主義のタトリン(ウィキ)の作品を思い起こすところがある。

この辺までは「上手だなー」という感想だったのだが、靴が一杯床に並んでいて、幾つものビデオが投影されている薄暗い大ホールに入ってびっくりした。何かわけがわからないけど楽しいのだ。例えば昔の投石機のようなものでネックレスが台の上に横たわる女性の方に飛ばされるのだが、それが落下するや否や何人もの人が女性には目もくれずネックレスを探すというビデオが、そのビデオの舞台装置の中で投影されているとか。
先ほどのロワジー氏の言葉を借りれば「遊戯性から作られたインスタレーションは予期せぬ素晴らしい形をとり、諧謔的に我々の芸術・社会習慣のウラをかく」ということだが、これは言い当てている。

ベゲット(ウィキ)がなんとかかんとかとも何処かに書いてあったが、こういう不条理性とか、それから一つのビデオでは登場人物がギリシャ悲劇の様に仮面を被っていたり、会場はガシャンガシャンと音がして騒がしいながら、おそらく200平米以上は優にあるだろう大ホールを上手く構成する手際はなかなかのもの(右と下の写真はウェブサイトから借りたが、実際はもっと薄暗いし、全体の感じはわからない)。

先月取り上げた3人の日本女性作家*の作品は、沈黙、時の永劫感といった欧米人が神秘的に思う「日本性」が深く宿っていると思うのだが、泉太郎は見事にそれを振り切って世界で勝負しているのに私はおそれいったのです。(実際には日本にも、狂言とかいくつかの優れた落語のように不条理なユーモアはあるので伝統的ともいえるのですが)


ここでちょっとパレ・ド・トーキョで同時に開催されていたアブラハム・ポワンシュバルAbraham Poincheval にふれると、この人は右写真のような石とか熊のぬいぐるみとかに入って何週間もの極限生活をするというアーティストで、、、こう聞くと「気が狂った隠遁僧」にでも思えるのだが、彼はエクサン・プロヴァンスの美術学校の「教授」で、奥さんも子供もあり、、、私には彼は完璧に現代アートの戦略(マーケッティング)に従っているとしか思えない。つまり「異常」なことをしてるが、ウラはかかれない。観衆は作品の石の中に入って写真を撮ってハイ終わりです。でもマーケッティングは大成功、日本語でもネット上で記事がいっぱいありました。この一例でもご参考に

泉太郎、ポワンシュバルともには5月8日まで


* 参考投稿
Where are we going, Bernard?:塩田千春
信じることの感動 :内藤礼
時の視覚化 :宮永愛子


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