2018年6月3日日曜日

キーファーの新作展(もう終わってしまったけれど)

何が面白くて何が面白くないかというのは難しい。例えばアンゼルム・キーファー Anslem Kiefer(ウィキ)

80年代はじめて彼の巨大でダイナミックな絵を目にしたときは惹かれたが、暫くするとパースペクティブな構図と灰黒黄土の材質感で圧倒するいつもながらの手法に飽きが来た。そんな時に観た「大地の魔術師たち」***の鉛版に球を打ち付けて凹ませて幾層にも垂らしたインスタレーションは同展のテーマであった非ヨーロッパ諸国の土着な表現に呼応したパワフルなもので見直した。だがその後は金属、土、草木、建材、何でも使った工事現場か廃屋の様なメガロマニー的な作品に、神話やユダヤの神秘思想、ホロコースト等の解釈がくっつくようになって、無教養な私にはうさんくさと衒学的なところが鼻に付くようになった。2年ほど前のポンピドーの回顧展*も国立図書館**の大展覧会も見ていたのだが、そういう印象を新たにし、会場でブログ用にと写真は撮ったが結局「書く」気がしなかった(一応私のブログは写真より文が主体ですので)。

でも今回のパリの近郊パンタンに大きなスペースのあるThaddaeus Ropac 画廊の近作点は「文字通り」一皮むけていた。文字通りというのは絵の上に液体の鉛をぶっかけて、その縁をまさに「皮を剥く」ように曲げて張り出させてあるのだ。制作年を見ると1986-2017とか、新しめでも2015-2017とか記されていて、つまり昔の絵の上に鉛をかけた。こうして例のパースペクティブは壊され、ど真ん中に重くてかつ繊細な幻の木(あるいは気)のようなものが現れ、今までの作品のイメージが「何かが起きた後」の光景のようであったのに対し、それが「変容する光景」のような、つまり彼が興味を持つ魔術的、錬金術的なイメージがダイレクトに表現されるようになったと思う。剥がされた鉛の裏には鉛に剥がされた絵のマチエールの層がくっつき、その質感は「卵かけご飯」が「親子丼」に変わったぐらい豊かになった。明らかに鉛だけでなくいろんなものがかけられていて、表面をよく見ると六角状の結晶がピカピカと光っていたり、、、私が海水ドローイングで「塩が光ってるでしょう」なんて人に言っているのが一挙にふっとばされた感じでしたね〜。「本当に無茶苦茶やりやがって、悔しい!(笑)」

ところでこの展覧会はAndrea Emoに捧ぐとされていているのだが、エモさんはイタリアの哲学者で学会を避けた孤高の思想家だったらしい (1901-1983)。ウィキでもイタリア語しかなかった。「記憶以外には新しいものはない。新しいことは我々から生ずる。我々は未来である、もしそれを放棄できるなら」というエモの言葉にキーファーは旧作品の破壊のインスピレーションを受けたようだ。そして曰く

「私はかつてとは反対に怒りも絶望もなく、絵を地面に置き暑い鉛をそれに流した。失敗は完全に予測の中に含まれ、何れにせよ結果はあり、もはや絶望の理由はない。この破壊行為が計画ではなく激怒により生じたなら、鉛が異なる流れをしたなら、結果は違っただろうか?」

ちょっとこれ、私の創作態度と似てるところがあるような。だから今回は気に入ったのかなぁー。



絵も巨大だけど

画廊も巨大


鉛の裏のハゲハゲ具合 詳細  

キーファーの絵も結晶は写真では難しいけど



 * どんな感じだったかは写真が一杯のこの日本人アーティスト(面識なし)の方のブログでも
** 「本の錬金術(l’alchimie du livre)

後半のエモ、キーファーの言葉は次のページから:
http://agenda-pointcontemporain.com/11-02%E2%96%B731-05-anselm-kiefer-fur-andrea-emo-galerie-thaddaeus-ropac-paris-pantin/

***の関連投稿: 
現代「キャビネ ドゥ キュリオジテ」論 続あるいは序


右は2015年秋の国立図書館での展覧会で撮った写真。「本」もこんなに大きいから参るよね。彼は五十肩知らずだろう。。。

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