2025年10月2日木曜日

牡蠣拾い エクス島の日々

エクス島(Ile d'Aix)の滞在はなかなか面白かった!
毎日海岸を歩き、スケッチをしたり宝物(=貝殻や穴のたくさん開いた石)を探したり、天気が良くて遅ればせながら今年初の海水浴もできたし、、、それに我が人生初めての経験としては、「転がる牡蠣」を採取してほぼ毎日それを食べ、、、 
 
岩は牡蠣に覆われ
 
「転がる牡蠣」とは島で習った言葉 "les huîtres roulantes" の直訳。普通は岩にしっかりくっついている牡蠣が何かの拍子で落ちたり、養殖場から波にさらわれたりして海岸に達し、岩の間の水たまりに転がっているものがそれで、私はこれを拾いに行くのが島滞在後半の毎日の日課になった(笑)
エクス島の海岸の多くは浜辺にも岩にも牡蠣の貝殻にあふれていて、牡蠣が沢山いたから養殖が始まったのか、養殖があってそれから流れて牡蠣が海岸にいっぱい生植することになったのかよくわからないが、オイスタースポットは岩肌が牡蠣だらけ。それに私と趣味を同じくする海鳥たちがたむろしているからすぐわかる。もし岩から牡蠣を剥がすハンマーナイフみたいなものがあったらあっというまに膨大な量を取れるだろうが、それのない私は水底を観察し、海藻の下をまさぐり「転がる牡蠣」を拾う。 

こういう岩と岩の間の水たまりに転がる牡蠣がいる。沖に見えるは後述のFort Boyard
 
牡蠣は自然に幾つもがくっ付き合う習性があって、そんな複合体や海藻やフジツボがいっぱい付着した野性味あるものなら結構簡単に見つかるが、商店に並ぶような平らな単体の牡蠣を見つけるのはなかなか難しい。しかしその変な牡蠣を開くのが結構面白かった(実は「牡蠣が島の名産だけれど私は開けられない」というこの島でアーティスト・レジデンスをできることになった友人画家に言われて「それでは」といつも使っている牡蠣開け用ナイフと手袋を持参してレスキューに行ったのだったのだ😄 その時点での牡蠣は養殖業者で売っている牡蠣だったのだが、、、)。毎日やると変形牡蠣を開くのも結構早くなる。けれども薬局すらもない小島で怪我するとやばいので慎重にゆっくりと眺めて楽しみながら:そんなに数食べられないし→一応これは前菜で毎日その後に炭焼きのバーベキューが待っているので。
 
と書くと別天地だが、実際には島の住民があまりにも少なすぎてか、港で漁師が魚を売るとか、島で野菜を栽培直売する店もなく、これにはがっかり。 島唯一の小スーパーの価格はべらぼうに高く、島民も島のレストランもすべて大陸で買い出してくるようだった。私がよくお邪魔するユ島(Ile d'Yeu)のぐらいの大きさがあり、ある程度の市場規模がないと現地直売経済が成り立たないことを実感した。 つまり私の牡蠣拾いは生活防御だったのだ😅
 
砂浜の小さな岩にも牡蠣がひしめきシュールな光景が
 
養殖はこういうプラスチックのトーテムに牡蠣をくっ付けるらしい

 
牡蠣の話はこの辺にして以下少し島の説明 :
 
エクス島がどのぐらい小さいかというと:人口は200人足らず、弓形をしていてその端から端まで3km、幅も600mしかないので、2〜3時間もあれば徒歩で一周できてしまう! 

島の名前からフランス人でもエクサンプロヴァンス(通称エクス)の名に惑わされて南仏の島だと思うのだが、パリから南西に向かった大西洋岸の都市ラ・ロッシェル La Rochelle から船で1時間強(もっと海路の短い他のルートもあるが不便で自動車族用:島内はノーカー、観光客は大陸の駐車場に車を置いていくシステム)
 
ユ島もそうだが、フランス南西部は13世紀以降イギリスの侵入を受けた地方で、この島も大陸を防御するための要塞が築かれた。そしてアラン・ドロンとリノ・ヴァンチュラ主演の映画「冒険者たち」や、フランスではテレビの競技娯楽(?)番組で有名な、これこそまさに要塞島のFort Boyardも東海岸の沖にある(以下の観光局のヴィデオをご参考に)
 
歴史のエピソードとしてはワーテルローの戦いで破れたナポレオンが南大西洋のセントヘレナ島に送られる前に滞在し、ナポレオン博物館なるものもある(牡蠣拾いで忙しく(?)私は行かなかったが)。
 
勇壮ないでたちで小海老を撮りに来た漁師たち。でも網の中を見せてもらったら1匹だけ。趣味なのかな〜?

この地方特有カルレという網漁の小屋。これも漁している時はお目にかからなかった。(もちろん写真は干潮時だが)
これはオイスタースポットの反対側の長い砂浜
 
 
 上空から撮影された観光局のヴィデオです


こちらは私のデッサン。インスタ京巴ページに投稿中で他にもあります 

2025年9月21日日曜日

アーティストの日

今週末は先週の週末は"Les Journées Nationales des Monuments Historiques" 「歴史的建造物の日」というのがあって、これはエリゼ宮とか普通は入れないところも見学できるので非常に人気がある催し。今年はノートルダムの塔の再公開という「鳴り物」も併せてされた。
 
これを真似して今年から "Les Journées Nationales des Artistes" 「アーティストの日」ができて、アーティスト協会がアトリエオープンを呼びかけたので私も参加したのだが、こちらの人気は??? 
文化省の後盾だと謳われていたにしてはメディアで耳にすることは全くなかったし、初年度だからとは言え公式サイトで私の名を入れて検索しても何も出てこなかったし、我がアトリエの来場者はもちろん私の知り合いで2日間で総数25人ぐらいかな〜? 
アーティスト側も冷えたもので10件以上のアトリエのある建物でオープンしたのは2軒だけだった。

いえいえこれ全然文句を言ってるわけではないのです。作品展示の欲求は前回の修道院の展覧会で完全に満たされてりたので、私のアトリエオープンの目的は一にも二にもアトリエを片付けること! そしてこれには大成功! 人が大勢来ない限りそんなことしようと思わないから:実はアトリエから沢山の作品が出かけていって掃除のしやすい展覧会中の5月にするはずだったのだが何もせず、、、😅 

そして掃除ついでに出てきた2021年のグループ展用に製作した作品に手を加え、その詩を書いたヒロエことソフィに来てもらってお披露目朗読イベントをした、その時の画像が以下のインスタのヴィデオ。(前回の投稿に書いて写真も掲載してますがそれからまた変わってます)

全然来る人がいなかったらアトリエオープンを口実に片付けもしなくなってしまうだろうから来ていただいた方には一層感謝です。

 

2025年9月3日水曜日

冥土への土産は羊乳のチーズ

"King of Rats" 2021, 236x125cm
Note: En bas il y a une photo déconseillée aux personnes très sensibles
注意:下の方に感受性の非常に高い方に向かない写真があります
 
 
最近台所のオーブンの下に向かってパッと黒い影が走る。最近台所へ再度出没し出した小鼠だと思うもののオーブンの下の隙間はものすごく狭い。まさか私の目の異常かと思ったが、もうこの際やけくそに今まで全く功を奏さなかったネズミ取りを二台並べて置いてみた。
餌は私の好物の羊乳のチーズ。我が家のネズミは主人と好みがあって、日本に行って帰って来たばかりの朝市のパン屋さんのパンを、吊るしておくのを忘れたら私が食する前に見事に食い散らかしたばかりだった。
 
それが今朝なんとアベックで並んで捕らえられているではないか!!!
 
一人なら慎重なところ二人なら冒険してしまうということはよくあるが、これはその例かもしれない。  
そして2匹とも本当に小さかった! 
 
衛生上可哀想とも言ってられない。水につけて完全な死を確かめて「禁じられた遊び」もせずにビニール袋に詰めてゴミ箱に行ってもらいました。
ネズミは子沢山のはずなのでまだいるのかな〜。しつこく今晩もダブルで罠をかけてみます。
 
しかし写真を見るとオーブン周り随分汚い。ネズミがいるはずか、、、。これを機に少し掃除をしよう。今日は何時に着くかわからないフランス方式の宅配待ちだし 😅
 
右の写真はこの投稿を書いていて急に思い出した「ネズミの王」。私の小さなドローイングからヒントを得てHiloéeさんが書いた詩をもう一度咀嚼して描いた、非常に天井の高い会場用にわざわざ作った巨大掛け物作品(236x125cm)。
展覧会は私がドラ・マールの家に行った時、つまりパリは外出禁止令中に企画者が焦って開催したが、一般公開されなかった。私はプロヴァンスに発つ前に作品だけ置いて展示も任せっきりだったのだが、たしかこれは展示されなかったと思う(21年5月7日の投稿で少しだけ触れている)。その後どこにしまったかも定かでなかったが今日探し出し初めて写真撮影。
これもかなり筆を入れる余地ありそう(最近そんなことばかりしているが) 
 
 

2025年8月24日日曜日

暑い夏の些細な近況

わかり難いかもしれませんが、歩道をご覧あれ
地球温暖化の影響顕著、フランス南西部では毎日40度を超える酷暑だったが、数日前急に涼しくなった日には前日との気温差20度もあったそうだ!南西部ほど暑くはなかったがパリも急にずいぶん涼しくなり、近くの大通りの並木のイチョウ(新しいビル街なのでまだまだ小さい)が急に黄色くなって落葉しているので驚いた。色づくというより暑さ枯れ? 
 
これも暑さ故だろう、自然空調の我がアトリエでも蚊にかまれる。これは今までそうはなかった。アトリエ内はまだしも、周りの人は馬鹿ンスだから私の責務?特に暑かった日々に中庭の木々に水をやったら近所にまだ水田がある愛知の実家かと思われるぐらい蚊に刺された。
 
加えてこれは暑さと関係ないと思うのだが小鼠が再登場、赤ん坊で世間知らずなのか私の足元を平気で駆けていく。ちゃんと仕掛けた毒の餌も食べているようなのにピンピンしているのは何匹もいるということなのか??? 自分で考案したネズミ取りばかりか市販のネズミ取りも餌を取られるばかりで子供ながら賢い??? ともかく原因はバカンスで住民がいないので大した食べ物も他地にないからムッシュサカタ宅にでもと潜入したのであろう。来週他の住人たちが戻ってきたら去っていくのではないかと期待するばかり。
 
こういう色合いのを買ってください
良いニュースはロレーヌ地方の気候がどうだったかは知らないがミラベルが美味しい。3回買って3回ともだから当たり年だ!(実は去年は完全ハズレだった)。
こういうのしか買ってはならないのだけど、赤みを帯びてぷりぷりして美味しそうなのが並んでいる。これだけでネズミも忘れハッピー😇
 
注:私とミラベルの仲を知らない方はいろいろ書いてますが次のかつての投稿からお読みください 

 
フランスも体温以上の気温が何週間も続くようになるとエアコンを買う家庭が増えるだろう。この誰が考えても自分は良いが周囲の気温を高めるばかりの機械が一般化してしまうと「こんな風になってしまうのですよ〜」と日本国は自身の愚かさ加減を世界に伝えて警鐘を鳴らしてほしい。
 
しかしそんな日本にパン屋のお兄さんをはじめ知っている人が何人も旅行に行き、皆さんまた行きたいと喜んでいる。 北海道や石垣島とか私の行きたいようなところまで行ってしまうのだからこれならなかなか魅力ありそう。
私は最近の日本旅行ブームは一重に円安の所為と思っていたのだが、隅田川、鴨川沿いがセーヌ川畔より美しいと言われるとどうしてそう見えるのかな〜と首を傾げてしまう。マンガ、グルメなど全てを含め、このブームの全体像、社会学の研究対象になりそうだ。
 

2025年8月16日土曜日

16世紀の城の現代美術、オワロン城

気温が37度になると人間の吸う息の方が吐く息より低くなるのだろうか。つまり人間は外気に対しクーラーになるのだろうか??? フランスでもそんな暑さになることがあるようになりました(ただし我が地下アトリエは快適ですが)残暑お見舞い  
 
ここからが本題:

「初めてビートルズのサージェント・ペパーズを聞いたときの感動は一生忘れられない」と言う友達がいたが、彼は私よりいくつか年齢が上だし英語ネーティブだからまさにエポックメーキングなイベントに出会った感動というのがずーっとあるのだろう。

美術展に関しての私のそうした感動は1989年の「大地の魔術師たち(Magiciens de la terre)」にある。これもその時代を経験をしないと、つまりその以前と以降の空気を肌で感じていないとカタログを見たからと言ってその感動は伝わらない。とはいえ各人個人史の違いがあるからをその時サージェント・ペパーズ聞いて感動しなかった人も「大地の魔術師たち」をみて感動しなかった人も大勢がいるのは当然だが。

まあともかく 「大地の魔術師たち」はその後の美術展の一つの節目、融解点であり、その後はかつての美術展のフレームが溶けて色々な方向に流れ出したように私には思われる。

その融解零度の感触を守った感のある場所がフランスの何処とも説明しがたい片田舎に忽然と立つルネサンスのお城にあった! それもそのはず、そのコレクションの基礎は「大地の魔術師たち」のキューレーターだったジャン=ユベール・マルタン Jean=Hubert Martin によるものだからだ。 

 



「軍隊の間」(パノラマ写真)
 
16世紀の天井画 

そのChateau D'Oiron(オワロン城)、その現代美術はおフランスの国立コレクション、つまり国立美術館なのだが、周りはほぼ真っ平らな畑が広がり近辺にこれといった街も観光地もない田舎で、知る人ぞ知る(?:実は私も最近まで知らなかった)。車でしか行けないのだが8月で駐車場の車の数が指折り数えられる程度だったからよっぽど興味を持つ人以外は来ない。(このままだと好き勝手言いたい放題の今の嫌な女性文化大臣に予算をカットされてしまうのではないかと心配になってしまうので非力ながら宣伝致します)

ここは16世紀に栄えた地方領主のお城、その頃はラファエロとかその時代のアートのコレクションがあった。その盛衰は歴史通でなければチンプンカンプン😅、有名どころとしてはルイ14世の寵姫のモンテスパン伯爵夫人が凋落後この城を買って最晩年に住んだ。 

それはともかく国が1943年に廃墟化していたこの城を買いフレスコ画や装飾を修復し、今やなかなか絢爛。だからポンピドーセンターとヴィレットというニュートラルな展覧会場で開かれた「大地の魔術師たち」とはかなり趣を異にするはずなのだが、ここでは城の建築も含めてキャビネ・ド・キュリオジテ的な融合というマルタンさんのエスプリがどっぷり。このコレクションが立ち上がったのが1993年だから時代的には「大地の魔術師たち」のすぐ後で、おそらく展示品も重なっているものもあると思う(確証なし&記憶に自信なし)。

アーティト側からそれに応えて作った作品もある。例えば2階に上って最初の大広間 「軍隊の間」、この立派な装飾豊かなサロンにはかつてルイ13世時代の戦争の英雄の絵が飾られていたらしいのだが、今ではそれを漫画化したような辻褄のない物品を組み合わせて作った可笑しな鎧のようなオブジェが飾られている。それら自体はそれぞれかなりゴタゴタしたものなのだが、空間の広さもあってか不思議にあっさりと極彩色の天井画と調和している。これは食事後のテーブルをそのまま固定した作品で有名な Daniel Spoerri で、ちょっと意外なようなやっぱりのような(笑)

この投稿の一番最初の百姓一揆みたいなBraco Dimitrijevicの作品もここだけのサイトスペシフィック。 

こんなふうに書いていくとキリないし、大きな空間の展示は写真も難しく、その場のハッとする感覚がでないのでごく簡単に終えてしまおう。ともかく見るものたくさんあって3時間以上いたけど最後は多少端折り、、、というのもここはカフェテリアとかいう洒落たものもなく近くの村もほぼ何もなし、じっくり長期戦するならお弁当持参で庭でピクニックしかない!


 

インスタで上げた写真は:

最初の動画はランプをワイングラスの影に映し出すBill Culbertの作品

次の写真二つは先の述べたDaniel Spoerriのアッサンブラージュで、動画は「軍隊の間」全体

「王の間」のイカルスの墜落がテーマの17世紀の天井画、その次が「美の女神達の間」 

Thomas Grünfeldの怪物

鏡の中で青い曲線が円になるFelice Varini

Tom Shannonの反重力彫刻

Charles Rossのレンズを通して太陽光が木を焼くのを毎日記録した作品  

オワロン城に招かれて食事した人のプロフィルが青線で描かれたRaoul Marekの作品

足で絵を描く白髪和男と川名温の日付画があったのはちょっと意外だった!

最後は私が苦手とする Marina Abramovic、クオーツのバイブレーションを感じて心の旅に出てくださいって、、、石の枕、痛いだけで何も感じないのですが

 


結局ここを私が非常に気に入ったのは史料では計り知れない「大地の魔術師たち」の「あの時」の新鮮味が保たれていることがあるのだが、単にノスタルジーを超えて私はやっぱりサイトスペシフィックな作品が大好きなのだと自ら確認するに至った。10年以上続けた海水ドローイングばかり続けてきたが、少し転換の兆しあり?や否や?

 

参考

オワロン城のサイト https://www.chateau-oiron.fr/

その中の現代アートコレクション Curios & Mirabiliaは https://www.chateau-oiron.fr/decouvrir/la-collection-curios-mirabilia

 日本語での簡単な解説:https://artscape.jp/artword/6068/

「大地の魔術師たち」とマルタンさんに関しては過去の投稿で書いています(ただし他のサイトに画像を頼っていたので絵抜け状態)


オマケ:YouTubeにこんなのもありました。Shannonの反重力彫刻の設置の様子です。 ちょっと面白い
 

 
最後にJames Lee Byarsの一角獣の角
 

 

2025年8月1日金曜日

岡本太郎とパリの切っても切れない関係

大阪万博は今がたけなわだろうか?:私はそうした情報には全く疎いだが(=全然興味なし😅)、パリではごく小さなものだが72年の大阪万博の太陽の塔を巡る岡本太郎(1911-1996)に関する展覧会が、主に所謂原始的な民族的アートを展示するケ・ブランリ博物館 (Musée du quai Branly) での開催されている。

日本では誰もが知る岡本太郎(この投稿で「へーえ」と思ったら詳しくはウィキを参照ください)だが、パリでその名を知る人は??? 

彼は1930年にパリにやってきて1940年に日本に戻った。その間にシューレリアリズム、抽象というヨーロッパの前衛芸術の洗礼を受けるのだが、私がこの展覧会を見てびっくりしたのは、彼が1938-39年フランスの人類学の父と言われるマルセル・モース Marcel Mauss(1872-1950)(ウィキ学び、日本に戻ってから伝承民族芸能の写真や映像を撮っており、万博に際しても太陽の塔の建設だけでなく、現在の民俗学博物館の土台となるレプリカの展示オブジェの選択をパリの人類博物館へ行って直接行うほど加担していたという事実だった。そのパリの人類博物館は1938年開館され、彼がモース氏から教えを受けたところだった。

上の写真は模型で、太陽の目から出る光がウルトラマンみたい
この辺のことが特に会場で上映されているJean Rouch監督が東京の青山のアトリエを訪れインタビューする映画(1974)で描かれており、これは必見!!! これだけでも展覧会に行く価値がある。また岡本がパリ滞在から30余年経っているのにフランス語が上手なのにびっくり。やっぱり20歳前に行っただけのことはある(自分への言い訳😅) 

岡本太郎は宣伝に登場したりマスコミで奇怪な表情と言動でキャラクターにしたてられたりして胡散臭い存在で、フランスでのダリの存在と似ている(参考投稿)と思っていたが、二人とも天才的だったことは認めざる得ない。 

ところで私は72年の万博の頃安保闘争の火がまだ燻っていた名古屋の高校生で、学校による万博遠足(?)に反対し(お上のすることにはなんでも反対だった)、でも結局はおそらく多数決で遠足は催され(??)、行ってみたらプリミティブアートのレプリカに感動し、かつ西洋近代の名画、例えば私の記憶ではムンクの「思春期」も来ていて(???:上記ハテナマークのすべて記憶は甚だ曖昧😅)衝撃を受けて、その後家族をけしかけてまた行ったほど180度意見転換、、、あれ以来教条主義を捨てて全くもって軟弱になってしまったような気がするが、、、(笑) 
 
岡本太郎が撮影した東北の鹿踊り
 まあともかくこの展覧会は
ケ・ブランリ博物館の常設会場の一角の小さなものだから、万博あるいは岡本太郎研究家以外にはわざわざ行きなさいとは言いにくいが、行ったらJean Rouchのドキュメンタリは必見です。
 
 
9月7日まで
 
いま博物館サイトを見たら8月の木曜日の夜間:晩6時から10時までは無料らしいので常設展を知ってる方はこの間に行ってください(笑)
 

 

パリの人類博物館にかつてより収蔵されていた縄文の偶像
 参考

この展覧会についての ケ・ブランリ博物館 Musée du quai Branlyのサイト

https://www.quaibranly.fr/fr/expositions-evenements/au-musee/expositions/details-de-levenement/e/taroo-okamoto

 

2025年7月22日火曜日

ガブリエレ・ミュンター Gabriele Münter 回顧展

では本題に入ります:前回のマチスはついでだったので😄 
 
パリ市近代美術館で開催中のガブリエレ・ミュンター Gabriele Münter (回顧展 "Peindre sans détours ":「ストレートに描く」と訳しておこう)、生涯(1877~1962) はウィキもあるので参考にして貰えばいいが、その歴史的ハイライトは1902〜14年のカンディンスキーの連れ合いだった時代だろう。彼女は10歳上の彼に画学校の先生として知り合い、二人でオランダ、イタリア、チュニジア、フランスと各地を転々とした後、1909年に南独バイエルン地方のアルプスに近い田舎町ムルナウに家を買いそこで二人で暮らしたが、そこは「青騎士」グループなどの前衛作家の集うところとなった。当然彼女もその表現主義的グループに属したおかげで歴史に名を残すことになるが、私がこの回顧展で発見したのは青騎士の前からの並々ならぬ才能だ。


まずは写真。 ミュンターは両親の死後妹と親戚を頼って1898年から1900年アメリカを旅行をする(ドイツ人の両親はアメリカに移民して財をなし故国に戻った)のだが、妹が姉に手持ち写真機をプレゼント🎂、それで家族写真のみならず、ニューヨークからテキサスまでアメリカの風景や人々の様子など400枚に及ぶ写真を撮るが、撮影アングルなど見事でその時代の秀逸なルポータージュとも言え、技術習得も大変な箱型カメラで急に撮り出した二十歳そこそこのブルジョワ娘の写真とは到底思えない。例えば銃を彼女に向けた少年は構図としてはWilliam Kleinの有名な写真を思い出してしまう。その時代娘二人だけで旅行するというのもなかなかのことだったと思われるが。1902年にカンディンスキーと旅に出たチュニジアでも写真を撮り続けるが、この頃にはスケッチ帳を持ってデッサンをしていて、その後の20年代の人物スケッチも含めいわゆる線描スタイルでミニマルで明確、かつ表現力もあり、これが前回書いた「マチス先生大丈夫かな〜」との疑問を抱いてしまった故だった(笑)

それから木版もうまくて(右の写真)、これも対象の簡略化というか本質だけを抽出するグラフィックな才能が光っている。これは特にドイツに戻る前のパリ時代に発展させた。その頃のパリはリトのポスターに代表されるグラフィックアートの都でもあった。
 
そういう天賦の際があり恋人兼先生のカンディンスキーも「おおっ」と思ったのだろう、色々教えるがなんでも自然に身につける彼女のことを「生まれながらの独学者」と称した。
 
才能を発揮しつつも彼女のパリでの絵画はまだ印象派どまりだったが、南ドイツに戻り以上に述べた要素がフランスの野獣派の影響をもろに受けた「ドイツ表現主義絵画」として結実する。でもその時代の作品の中で私が特に面白かったのはミュンターが白黒の子供の鉛筆デッサンをコピーしてそれに色をつけて油絵にしたシリーズ。子供の絵はその頃急速に発展する産業に対しての自然な創造性を代表としてすでにドイツでは関心をもたれていたらしいという事も面白い。
 
子供のデッサンを

こう解釈(1914年作) スーチンもびっくりかも?


自分の構図はもっと安定してます。1908年作の「山小屋のある風景」
 
「青騎士」団の絵は伝承物語的テーマは多いが、カンディンスキーと彼女はムルナウ時代には素朴な伝統工芸にも興味を持ち、前述の子供の絵と同様それらをコレクションし、それらがモチーフが絵の中にも現れる。
 
ムルナウの家の居間、奥の部屋で横たわっている男はカンディンスキー(1910年頃)
 
1914年に第一次世界大戦が勃発、カンディンスキーはロシアに帰り、先妻と離婚したかと思うと(それでいままでミュンターと結婚できなかったはずが、、、)、32歳年下の女性と結婚してしまった! これでガブリエラはぶち切れ何度も鬱に陥り、芸術界からもマージナルな位置にも追いやられ、我が道を行くことになる。
カンディンスキーは1921年にバウハウスの教師としてドイツに戻ったが再度会うことはなく、かつ彼はムルナウの家にある作品を返せと言ってきてそれを断固拒否。ナチ政権下では彼女自身は「退廃芸術家」の烙印は押されなかったもののナチの意向にそぐうものでもなかったのでムルナウで閑居、地下に自分、カンディンスキー他の青騎士作家の作品を隠し続け、後にそれらはミュンヘン市に寄贈される(>レンバッハハウス美術館に収蔵)。
 
1920年以降作品的は表現主義的な具象の傾向を根底に保ちつつ、現代美術の潮流とは関係なく新しい具象を探求、以前よりずっと愛惜、心理性が伺われるようになる。
 
結局のところ私には彼女は何事もうまくこなすグラフィックなセンスの天賦の才ゆえに器用貧乏だったような気がする。 青騎士をほったらかして抽象絵画に向かうカンディンスキーや、見る人が見ないと😅「下手」としか思えないようなマチスやピカソは、資質のみならず自分のイデオロギーを築いて美術史のメインストリートを歩むことになるが、カンディンスキーががいみじくも指摘したように「生来の独学者」であり最後までこつこつと絵画の小径を一人一途に歩み続けた。
最近の私にはこういう人の方が親近感持てるかな〜 
 
孤独感の漂う1934年作の「鳥の朝食」

なんか寂しい感じになってきました。あの素晴らしい愛をもう一度? 
いえいえ1927年に美術史家哲学者の新しい伴侶を得て多分幸せに暮らしたのでご心配なく(一緒に財団も創設)

 

パリ市近代美術館にて8月24日まで 美術館サイト(ただしあまり情報なし)

回顧展だがそれほど大きくはないし難しくないのでので普通の人はマチスと合わせて簡単にみられるでしょう。来場者数から見てあまり人気なさそうだし(それがこのブログで取り上げる理由😅)

 
 
ここで終わりで写真とデッサンはネットに任せようと思ったらほとんどなかったのであえて:反射があってひどい写真ですが一応ご参考までに 
 
 

 
 
 
 
鉛筆のピュアな線描はコントラストが低くてもっと撮りにくくて、、、 

右の女性はOtto Dixの肖像画にある怖そうなジャーナリストだ!(1928)

最後に、これが彼女が持ち歩いたKodak Bull's Eyeというカメラ
 

 
少しダブりますがインスタにもっと写真載せました (一番最後の絵は初期のパリ滞在時の風景画です)