2015年12月14日月曜日

無量寺への旅

串本の無量寺、ここにはなにかすごい絵があったはずだと思ったのは白浜のホテル。だが私のガイドブックにはページの片隅にお寺の写真があり「応挙芦雪館がある」と書いてあるだけで、見たい絵が何だったかも思い出せない。確か大きな龍でなかったか?という程度の裏覚えなのだがこのお寺の名前には確信があった。

串本は紀伊半島南端の潮岬のある町。無量寺は駅から徒歩で10〜15分ぐらいと近いから2時間後の次の列車までにはちょっと海岸で「海水採取」もするつもりだったのが、、、

お寺に着くと「猫目の虎」* の絵のポスターが張ってあったから「ああこれだったか」と記憶違いではなくてほっとする一方で期待に気持ちが高鳴る。11月のとある日(といっても土曜だったが)に来るのはやっぱり私ぐらいで、鍵を開けて入れてもらう。デジタル再生の襖絵と他の収集品のある展示室と本物の襖絵のある収蔵庫、そしてデジタル再生の襖が入った本堂の三部形式で、オリジナルを見るのと見ないので閲覧料がかわるのだが、ここまで来て本物見ない人っているのだろうか? 

 「すごい絵」は何かと言うと先ずは襖一杯にはみ出んと登場する「虎」、そしてその対面の、こちらは身体が襖から飛び出してしまって頭がぐっとアップになった「龍」(つまりこれも私の完全な記憶違いでもなかった☺)共にかなりグラフィックな現代的構図。皆さん、これが本堂で阿弥陀様の左右にあったなんて想像がつきますか? (下の写真は本堂のデジタル複製品。これも撮影禁止で手がけた印刷会社のサイトから転載)




無量寺のサイトに説明に詳細は譲るが、津波で全壊した寺を再建した際(1786)、住職が親交のあった円山応挙に襖絵を依頼、応挙は障壁画12面を描いたが、多忙な上に年齢的なこともあったため、弟子の長沢芦雪(ウィキ)に名代として京から南紀に向かわせた。応挙は優れた技術で几帳面な絵を描く(私の意見)。その師の技術を習得した芦雪だったが、この南紀串本で才能が開花、師にはなかった開放的な画風に発展する。「虎」「龍」は応挙には絶対あり得ない大胆な構図、そして師から受け継いだ腕前の鶏や鶴、それ以外にも自分の子供時代を描いたような、寺子屋で遊ぶ楽しく生き生きした「唐子遊図」と、この寺に残した43面の襖絵はどれも傑作。彼は約十ヶ月間の滞在中に270点余りもの絵を描き、まさに画業の絶頂期を迎えた。当時33歳。その後京都に戻った彼は子供2人に夭折され、自身も46歳で大阪で客死する。

ところであんな虎と龍での阿弥陀様の挟み撃ち、その当時の串本は田舎も田舎、おそらくほとんど住民は襖絵など見たこともなく、意外に誰も驚かなかったのかもしれない。それどころか京都から来た大先生と崇められ一気に彼の才能が開花したのではないか。(自分のことを引き合いにするのもなんだが、私でも田舎のアーティスト・レジデンスで村民に何でも感心されると調子に乗って色々作ってしまうので)

ともかく見学は監視の方と一対一だったから、気兼ねをしないこともなかったが、絵に圧倒され、たっぷりと見せてもらった!

串本にはトルコ人なら誰でも知っている「エルトゥルール号話」(ウィキ)の記念館もあったので、パリのトルコ人知人へのお土産話にと思わないでもなかったが、それどころではなくなり、紀伊勝浦の島の中の海岸温泉に行くべく走って駅に戻ることになった。

ところで白浜は親戚が今、パンダとペンギンの飼育で有名らしい「アドベンチャー・ワールド」で仕事をしているので見に行った。 ちょっとファミリー向け(つまり子供向け=日本の常か?)にし過ぎるところもあるが、それはそれで十分楽しめた(プログラムが頭に入っているガイド付きなので尚更)。上の写真はそのイルカショーと餌やりでした☺

無量寺のウェブサイトは何かわかりにくい。収蔵品案内ページへ入って一間一間見ること(頁下の「XXの間へ」というのを随時クリック)を推薦します。

串本は遠いけれど最近は「熊野古道」もあるので近くに行く機会は増えたかも。そのついでに?(でも興味ない人には閲覧料高いでしょう)

* 有名なお話ですが、猫目になったのはその頃の日本人は虎を見たことがなく一種の架空の動物で、芦雪は猫をモデルに写実(?)したからです

0 件のコメント:

コメントを投稿