2013年4月14日日曜日

二つの「雨の絵」




3月に知人から「l'Arbre de vie(生命の木)」展を見に行ったら雨の絵があってびっくりしたと知らされた。「キャンバスを雨に打たせて雨粒の跡を記録する」という全く同じコンセプ ト。展覧会のプレゼビデオを見たらキュレーターが私がいつも人に説明するのと見事に同じことを言っている。これにはちょっと焦った。というのも展覧絵が催 されている場所は「ベルナルダン修道会(College des Bernardins)」というかつての修道院を改装したれっきとした公認」の「現代アート展」の大会場で、私のパリの小さな画廊とは大違い(かつ最近店じまいしてしまった)で、今後私が「雨の絵」の話をすると「別の人がもうやっている」という嘲笑的対応を予期せねばならぬからだ。以前書いたことがあるに 違いないが。「キス集め」を久しぶりにしたときに、「誰かがやっていた」(どうせ真似でしょう?)と冷たい反応を受け、どこで見たかを思い出させたら案の定それは「数年前の私」だった。「創造的なことは難しい」というのは私も認めるところで、それで苦労するのだが、苦労しすぎたか、その人に創造性 があまりにも欠ける所為か、真似するのを悪く思わないのか、何れにせよ世の中(フランス?)には「オリジナルなものを名のないアーティストが市井で行っていることは、真似以外にはありえない」と結論している人があまりにも多いのだ(普通の人ばかりではなくアーティストも含む)。私は真似はしてないし、知ったことかと我が道を続けるしかないのだが、予想される反応には今からうんざりする。まあこれ以前も雨の絵は「イヴ・クラインの真似」とさせることがあり、クラインの雨は「あまり成功したとは言えない実験作品にすぐない」ことは彼の回顧展の折に実際確かめて旧ブログ(06/12/08)に書いた通りだが、有名作家には圧倒的な伝説のオーラがあり、みんな知ったかぶりするのでこれも厄介だった。

今回は40代の作家。さてこの新たな「雨に絵」で青い四角が出てきたらそれこそ腰を抜かすところだったが、ビデオを見る限り随分は感じが違う。だから先週実物を確認に 行った。Thomas Fougeirolという作家のものだが、写真のように起伏のある、月のクレーターのような雨粒の跡で、おそらくべったり塗った絵の具がまだ柔らかい状態で雷の時の叩き付ける大粒の雨の下に出したようだ。簡単に聞こえるが、これはこれで私同様キャンバスを出すタイミングをかなり研究したに違いない。私もこの方法を考えないこともなかったが、私の懸案は大きな雨の絵を作ることで。この方法でも広い一様な平面を作ることは難しそうなので研究しなかった。この作家はあまり気にしないのか絵の具をへらでばっと伸ばしただけの感じで、サイズも35x27cmとやはり小さく、7点並べて展示(つまり展示方法も似ている。でも彼のはダイナミックな雷雨ばかり。多分レリーフをスプレーを斜めからかけて強調している)。
彼が私の作品を何処かで見て真似をしたとは到底僕は全く思わない。雨を残そうというのは私一人が考える訳ではない。かつその目指すもの(結果)が全く違う(=そこが個性)。彼はパリとニューヨークで活躍する「公式ルートの人」で、私も彼の名は知っているようにも思えて彼のサイトを見たのだが、作品も知っているような知らないよ、、、つまり全然私には興味が持てない種類のもので、私と彼が「雨」という接点を見いだしたことすらが不思議なぐらい。彼と私が似ている(?)ところがあるとすれ ば、色々やっていて何をしているか絞れないところかな。

自分の「雨の絵」のことを話すと:実験を始めた1998年以来ほぼプロセスは変わっていませんが、最近は「雨の絵」とその日その時間の気象衛星写真とカップリングさせ、今年の冬はハイテク・ヴァリエーション(?)で雪の絵も始めました(左のリンクにある「毎日の作品」参考)

さてこの 「l'Arbre de vie(生命の木)」展ですが、ひがみを差し引いても「わざわざ見に行くことないんじゃないかなー(雨の絵が一番良い?)」でノーコメント。(これが美術案内だろうか☺)

Thomas Fougeirol の雨の絵
tableau de pluie
今は昔 2001年3月24日15時40分の雨

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