さて出し物の"Raoul"、ラウルは閉じこもり青年で、写真のごとき、パイプをたてたテントみたいな牙城に閉じこもって住んでいるが、彼の分身がその殻から外に出そうとする。彼の分身:はじめはよく似た俳優を見つけたものだ、兄弟役かと思っていた(台詞はない)が、どう見てもジェームズ君自身で一人二役、つまり一人芝居で、芝居をしない替え玉俳優と場面場面ですり替わる。その構成は見事だ。彼の動きはダンスとアクロバットの中間みたいなものなので一人二役の「体力」は相当なもの。入れ替わりを使い、それからお母さんのヴィクトリア・チャップリン5/19紹介の舞台のような「奇怪な生物」(装飾は彼女が担当)を登場させて、うまく身体に「休憩」を入れていた。何しろ1時間半、かつアンコールにも余裕で演技をしたり、歴代の「芸人サービス精神」満点だった。
だから十分楽しめたし、期待は裏切られなかったが、すごい感動はしなかった。多分その理由は一人芝居の制約がある。これは見る人が見れば一層面白いのだろうが、私は大昔テレビ中継で観てショックを受けた La Veillée des Abysses これも5/19紹介 の出だしの、ソファーに座った数人の不思議な所から脚や首が出たり消えたりする絡み合いがあまりにも斬新でビデオ参考:あれがやっぱり生で観たい。それからテーマのラウル君の目覚め、解放されるプロセス(これは私の単純解釈?で、ジェームズ君の言葉では「この劇では、孤独はその鏡像に豊穣と群衆があり、その群衆はそれを構成する特異な部分部分の中に、自由、出会い、逃避の渇望を隠している」)がもう一つしっくりこなかった(だから訳もほぼ直訳でぎこちなくなりました)。
私はよく社交的に見られるが、実際にはパン屋で注文した一言以外誰とも何も話さないようなこともしょっちゅうな、普通の人にはおそらく想像できない孤独な存在。 ラウルが解放されるのに感動した一般観客と逆に、ひょっとしたら私はラウルの分身の揺さぶりに自分の殻を厚くして心的防備をしたのかもしれない。だから私も少しはマトモになりたいと、肘がすべって肘がつけない、膝がすべって脚が組めないジェームズ・ティエレの得意(特異?)芸を一人で真似して遊んでいるほどの、正真正銘の「馬鹿者」なのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿