2017年3月30日木曜日

これが…だったなら


トゥオンブリーに続き、なかなか書けなかった宿題の第二弾「フランス大統領選」。これは大接戦のスポーツの実況中継を聞くがごとく、端から見ていて(私は選挙権がないので、、、)とても面白かったのだが、第一次選挙まで1ケ月を切ってしまうと面白いより「心配」になってきた。

今までの毎日事件の連続を時系列で追っていくだけで本になってしまう量だし(きっと選挙後雑誌の特集や本が続々と出るだろう)、私のブログの場合読者がフランスに住む日本人の方と日本の方と半々だから、この話題ではベーシックな知識に差がありすぎて何を書けば良いのやらなのだ。

先ず今回の選挙の特殊性は、キャンペーンが始まる前から極右のマリー・ルペンが25%にのぼる固定支持層のお陰で第一次選挙ではトップになることが大前提とされ、誰が二番手に入るかということで争われていること。フランスの大統領選は第一次選挙(4/23)でどの候補者も過半数の票を獲得しないとトップと二位とで決選投票となり、二位に入りさえば決選投票では国民が「反極右」で固まり大統領になれるという「仮定」で、のっけから二位決定戦でスタートした。

妻子に「架空」と思われる秘書業務で68万ユーロという膨大な金額を払っていたというスキャンダルが1月末に発覚する前の共和党のフィヨン、そして最近「人気上昇」のマクロンが世論調査でルペンを上回ることもあるが、極右のマリー・ルペンが決選投票に行く見込みは彼女周辺の様々な疑惑事件にも関らず微動だにしていない。

ああ、もうすでに固有名詞が並んでしまった。事情通でない方は飛幡祐規さんのブログをご参考に。

私は実のところ
では他の有力候補3人から



そのマクロンだが、支持基盤がないからダメだろうと思われていたのが、今日のような状況になる(共和党も社会党も候補が両極端、つまり真ん中に空白が生まれる)と本人は見越していたとしたらすごい。かつずーっと「大統領はヴィジョンを示すので政策プログラムはなしでよい」としていた。実際に有権者の多くはそれを詳しく読まないし、オランドをはじめ選挙前の公約が守られることがなかったという事実を考えると達見で、そういう意味では面白い男なのだが、、、私には彼のヴィジョンが何なのかもはっきりしない(笑)。彼は議員でもなく民間(ロスチャイルド銀行)からオランドに抜擢されたからこれが初めての選挙だが、今までの選挙作戦は大成功。さてさて今からどうなりますか、まだまだ波乱がありそうな、、、。

結局こういうことは私が書いても、、、という内容になってしまった。あー残念。でも折角書いたからアップロードします。

グラフを掲載しましたが、その世論調査は共和党統一候補にフィヨンがなることも社会党統一候補にアモンがなることも見事に外したので、本当に実態を表わしているのか眉唾物。競馬の下馬評のようなものとお考えください。ただし競馬新聞が何を書いても馬は読まないのが、有権者は世論調査に影響されるので何が何だか、、、質が悪いですね。
でもフランス人は世論調査が大好きでいつでも「今大統領選があったら?」を調査しています。


最後に公平を期すため11人候補者全員の写真を(笑)
ラジオ局のサイトからですが、各候補と公約の簡単なまとめ(もちろん仏語)もありましたので知りたい方はご参考に




フランス大統領選2017 観戦ガイド」と私が躊躇したセンセーショナルなタイトルがついていました。びっくり。ご参考までに


2017年3月22日水曜日

サイ・トゥオンブリーの謎

この数ヶ月なかなかブログに書けない二つの悩みがある。その一つは日々新たな展開がある仏大統領選挙、もう一つはポンピドーセンターで60年の画業を振り返る回顧展が開かれているサイ・トゥオンブリー Cy Twombly (1928-2011) 。実はこの展覧会に私はかなり感動してしまって、、、。「20世紀を代表する」と評される大作家の絵に感動して悪いことは何もないのだが、何であんなグリグリと色鉛筆やクレヨンで落書きをしたような絵に感動するのかが自分で不思議。評論家のコメントなどを読み聞きしても手放しで絶賛するばかりで、ほとんど参考にならず何に感動するのか謎は深まるばかり。

作家紹介はめんどくさいので日本の雑誌の記事を引用させてもらうと


『トゥオンブリーが作家活動を始めた1950年代前半のアメリカでは、ジャクソン・ポロックに代表される抽象表現主義が美術界を席巻していた。ポロックはやがてアクションペインティングへ移行するが、抽象表現主義の傾向は、後期のマーク・ロスコのようなカラーフィールドペインティングに向かう。そんな時代背 景の中、トゥオンブリーは自らのスタイルにこだわり、手で描くという身体的所作によって、内なるエネルギーを画面にぶつけながら作品を生み出してきた。20 代の終わりに拠点をローマに移してからは、ポップアートやミニマルアートという両極端へ展開していく60年代アメリカのアートシーンとは距離を保ちつつ、 自分の道を歩み続けた。即興的に描かれる線や絵具の飛沫に、文字・数字・記号がランダムに組み合わさった作風は、まるで”描画された詩”』(ソース:Casa Brutus)


「落書き」と先に書いたが、サイ・トゥオンブリー(以後CTと略記)の絵には、わざと右利きの人が左手で書いたような、慌てて手帳にメモしたような、、、所謂ミミズが這ったような文字で走り書きされ、そして頼り気ない線がひょーっと引かれていたり、それらが拭き消されたり、絵の具で覆われたり、、、。その絵の具 もお汁のときもあればべトっとヘラでつけられていたり、手で汚されたり、、、そして全体の構成もまあないと言った方がよい。フツウの意味では全然「できた」絵ではない。そう言う意味で「従来の美学」を打ち破ったので現代美術の専門家が礼賛するのは納得できるのだが、ただのデッカイ落書きかというと、それがどっこい絵としてちゃんと見られるのだ。

彼の作品のネックは、何と行っても「文字と筆跡」だと思う。走り書きとはいえまったく読めないかと言うと、断片はしっかり解読できる。かつその文がローマ帝国時代のウェルギリウス(ウィキ)の詩の一節で、「読んだときの感動、興奮の表れである」といわれても、文学的教養のない私には何のことやら。コンプレックスに苛まれるばかり。 
私が一応読んだホメロスの「イーリアス」も連作があり、戦いの絵を見ると確かに「矢が飛び刀が火花を散らし血が流れ」という光景を思わせる子供じみた具象的な記号が散りばめられている。でも一流の文化人たちがそんなものに感動しているのかは疑問(ロラン・バルトによれば「CWの絵は筆記の暗示的フィールド」だそうで)。実際「イーリアス」を本当に読むと、英雄たちの兜とか鎧が如何に素晴らしいかという描写と神様たちの移り気の話ばかりで、私なんかうんざりして何頁も飛ばし飛ばししないではいられなかったのだが、英雄たちの盾のシリーズもあって、これは楕円形に線がグリグリグリグリ。或は英雄の名前が大きく繰り返しかかれていたり。これが古典中の古典のエッセンス、つまり私の感じた「退屈」を伝えているととも思えるのだが、この私の解釈と名だたる「知識人」たちの解釈とは勿論天と地の隔たりがあるはず。 
アキレスの戦い、へへへ

左はアキレス、右はヘクトールの楯だそうで、う〜ん、、、
その他にも彼の絵には具象的な要素も多くて、結婚直後の絵には奥さんの股ぐらが描かれているように見えて、、、2回目に行った時にその絵の前のグループの横で立ち聞きしたポンピドーセンターの解説員の話ではその絵にべったと塗られた絵の具の固まりは血かも、唾液かも、糞かも、精液かもしれない」そうで、「確かにキタナい」と私は笑ってしまったが、グループの皆さんは大真面目でそれを「情念の吐露」とする解説に聞き入っていた。どうなってるの???

と変な前衛主義と教養主義が混ざって普通なら私は「あーあ」と思うところなのだが、前述したように、何かすごいところがある。なんだろう?

エジプトの太陽神が舟で空を横断している、ハハハ
初めは作家の「信念」かと思った。というのもこの「絵とも言えない絵」を堂々と発表し続けるには自分の作品に対する並大抵の確信が要ったはずで、その自信の力強さが伝わって来るのかと、、、。
でもそれは違う。彼の作品はそうした断固としたところと同時に、もっと危うい、線や文字の曖昧さの様に、不安定さや疑問を孕んでいる。だから何度も何度も描いては消し、グリグリグリグリ、それを続ければ祈りが叶えられるというような。あるいはアポロン、アポロンと何度も上書きしているうちに神を呼び起こさせうるのではというような、繰り返しの「身体行為」の末に何かが宿ることを願うような切なさを私は感じるのだ。
信念がなければ続けられない、しかし同時に弱さ、疑問を抱きつつ、、、それがいつも切実にある芸術家のみならず、大抵の人が生きていて感じることだからこそ、私の他にも多くの人の心を打つのではないかと思う。

初期の「筆跡」から晩年には文字が亡くなり色鮮やかに「絵的」に変貌を遂げて行くが、共通するのは「身体的行為(身振り geste)。ここで読者のよりよき「一般的理解」の為に、CTを早くから評価したロラン・バルト(ウィキ)によれば、「『身体行為』とは『行為 (acte)』の付加物。『行為』は過渡的なもので、ある物、ある結果を生じさせようとするのだが、『身体行為』理由と衝動と不活動の不確定で無尽蔵な合計である。… CTは『身体行為』の仕手であり、効果を生もうとすると同時にそれを望まず、生まれた効果は必ずしも望まれた物ではない」
この離反性というか矛盾は私が見る「信念」と「疑い」と関係しているのではないかと思うのですが、どうでしょうか? 


ロラン・バルトを引用しましたが、彼は色々難しくエクリチュールとかジェスチャーとかの概念を操作して上手いこと納得させるようなことを書いていますが(source)、私は禅や老子に至る彼の解釈に賛同した訳ではありません。

現代美術評論家のピエール・レスタニー Pierre Restany (wiki) 1961年のCTのパリ最初の個展のカタログ序文に彼の画風は詩であり、記録であり、ひそかな身振りであり、性的抑圧からの気晴らし、自動筆記、自己の肯定、そして拒否でもある。そこにはシンタックスも論理もないが、存在のそよぎ、事物の奥底に至る呟きがある」書いたのですが、これは短くも結構言い当てている気がします(だからか会場のパンフレットの最初にも引用されている)。でも評論家の文章って結局文学ですよね〜。

この回顧展はごく普通に年代順に大作のシリーズが並べられいるが、やはりこのオーソドックスな方法が一番作家を理解しやすい。4月24日まで。皆さん行って私同様悩んでみて下さい。

それから素人の方が当然抱く「なんでこんな落書きが何十億円もするの?」という疑問はただただ「市場の論理」ですので、投機対象が美術作品になっているだけで本来の「美術の問題」ではありません。「現代美術は分からん」と言うよりも経済問題の一つとして研究して下さい(笑)

注:引用は私流の訳ですので悪しからず

2017年3月6日月曜日

パレ・ド・トーキョーのタロー・イズミ

前回書いたアンソニー・ドーア氏は私が知らなかっただけでとても有名な作家だったのだが、2/18に推薦したTaro Izumi(泉太郎)も調べてみると同様で、私が書くまでもなさそうだが、、、予告したのでPanと題されたパレ・ド・トーキョの展覧会を少し紹介。

最初にあるのはレンガの壁。毎日壁の一つのレンガをビデオで撮って、そのレンガ画像で壁ができている。時々レンガから顔が覗くのだが、、、プロジェクター二台だけでうまくできている。解説によると「展覧会に来た人を迎えるこの作品は物とその像との距離感への泉太郎の関心を明らかにしている」


次のホールにはスポーツ選手のプレーの体位を再現できるようにした彫刻と選手の写真と体位再現写真の組の作品が並ぶ。企画のジャン・ド・ロワジー(フランスの現代美術界に入りたい人は、この人のお友達になるといいですよ。勿論私は面識ありません)のお言葉を簡単に咀嚼すると「日常的に身体を支える道具である椅子とか台とかを使って選手の衝撃的アクションを真似する支えを創り出した作品は、スポーツの英雄である選手たちの肉体へのあこがれへのパロディであるとともに、彫刻の台の歴史への興味深い解釈でもある」 



これは「タトリンの塔」(1919-20)
ははは、彫刻の台ねー、本当かなあ。ロワジー氏のこの深ーい美術史的解釈はともかく彼の家具などを組み合わせた彫刻はなかなか良くできていて、ロシア構成主義のタトリン(ウィキ)の作品を思い起こすところがある。

この辺までは「上手だなー」という感想だったのだが、靴が一杯床に並んでいて、幾つものビデオが投影されている薄暗い大ホールに入ってびっくりした。何かわけがわからないけど楽しいのだ。例えば昔の投石機のようなものでネックレスが台の上に横たわる女性の方に飛ばされるのだが、それが落下するや否や何人もの人が女性には目もくれずネックレスを探すというビデオが、そのビデオの舞台装置の中で投影されているとか。
先ほどのロワジー氏の言葉を借りれば「遊戯性から作られたインスタレーションは予期せぬ素晴らしい形をとり、諧謔的に我々の芸術・社会習慣のウラをかく」ということだが、これは言い当てている。

ベゲット(ウィキ)がなんとかかんとかとも何処かに書いてあったが、こういう不条理性とか、それから一つのビデオでは登場人物がギリシャ悲劇の様に仮面を被っていたり、会場はガシャンガシャンと音がして騒がしいながら、おそらく200平米以上は優にあるだろう大ホールを上手く構成する手際はなかなかのもの(右と下の写真はウェブサイトから借りたが、実際はもっと薄暗いし、全体の感じはわからない)。

先月取り上げた3人の日本女性作家*の作品は、沈黙、時の永劫感といった欧米人が神秘的に思う「日本性」が深く宿っていると思うのだが、泉太郎は見事にそれを振り切って世界で勝負しているのに私はおそれいったのです。(実際には日本にも、狂言とかいくつかの優れた落語のように不条理なユーモアはあるので伝統的ともいえるのですが)


ここでちょっとパレ・ド・トーキョで同時に開催されていたアブラハム・ポワンシュバルAbraham Poincheval にふれると、この人は右写真のような石とか熊のぬいぐるみとかに入って何週間もの極限生活をするというアーティストで、、、こう聞くと「気が狂った隠遁僧」にでも思えるのだが、彼はエクサン・プロヴァンスの美術学校の「教授」で、奥さんも子供もあり、、、私には彼は完璧に現代アートの戦略(マーケッティング)に従っているとしか思えない。つまり「異常」なことをしてるが、ウラはかかれない。観衆は作品の石の中に入って写真を撮ってハイ終わりです。でもマーケッティングは大成功、日本語でもネット上で記事がいっぱいありました。この一例でもご参考に

泉太郎、ポワンシュバルともには5月8日まで


* 参考投稿
Where are we going, Bernard?:塩田千春
信じることの感動 :内藤礼
時の視覚化 :宮永愛子


2017年3月4日土曜日

すべての見えない光

私は全然読書家ではなくて、ブログに本のことなどほとんど書いたことがないが、、、、

先日図書館で "Toute la lumière que nous ne pouvons voir" という本がテープルに置いてあった。作家はアメリカ人のAnthony Doerr。この著者は知っている。昔住んでいた12区の、店員たちが自分の推薦図書には手書きの書評を付ける、パリでも珍しい熱心な本屋で、私と気の合う(と思われる)店員の手書きを見つけ、その推薦文に惹かれて "Le Nom des coquillages" (貝の名前)という短編集を買った。内容は殆ど覚えてないが「良かった」(笑)。かつ私はご承知の通り「見えない」ものが好きだから(題名を直訳すると「私たちが見ることのできないすべての光」)、分厚く600頁もあって読み終えそうもなかったけれど借りた。

毎晩ベッドの中で夜更かしして読んでいたのだが、ブルターニュ地方の入り口のサンマロの空襲で地下室に一人で避難する盲人のフランス人少女、そして建物が爆撃されて瓦礫に閉じ込められたドイツ人の若い兵士の話から始まり、これが第0章で1944年8月7日。それから第一章で34年にもどり少年少女の生い立ちが語られ、その次第二章は章の続きで翌日44年8月8日、次は40年7月と時を行きつ帰りつ二人の主人公とその周りの登場人物の関わりが絡まってくる。後半で時の前後へ揺れがドイツのサンマロ占領下に集中してくるともう大円団間近と思うから読み終えないではいられなくなる。ちょうど図書館から「もうすぐ期限ですよ」とのメールまで来てプレッシャーもかかり、久しぶりに本にのめり込むようにして返却期限を待たずして今朝読み終えた。ああ疲れた。

裏表紙によるとアメリカではベストセラーになっているらしい(仏訳は2015年出版で、我が図書館に入ったのは昨年4月)ので調べてみたら、2015年のピューリッツァー賞に選ばれて、オバマも愛読とか。そんなことは私の評価とは関係ないのだが、話の組み立ても先に書いたように凝っていて、表現もとても良い(仏訳だけど)。盲人の少女とラジオ少年という主人公の二人の軌跡は特異と言えば特異だが、歴史の中に揺さぶられる「小さな個人たち」のドラマが詩的に描かれ感動します。

当然ながら邦訳ありました!

「すべての見えない光」 アンソニー・ドーア

というわけで今更ながら私が?という紹介ですが、アンソニー・ドーア氏は寡作で2003年の前記 Le Nom des coquillages(原題 The Shell Collector)以来4冊しかなくて、新し好きの日本人にはすでに忘れられているかもと思いつつ、、、。この本(原題 All the Light We Cannot See)は10年がかりで書いたそうです。
だいたいですね、私はフランス語だと日本語の3、4倍は時間がかかるし、それ以上に時々意味の分からない文章があったりして悲しくなるのですが、それにもかかわらず私を毎晩没頭させたのですから、素晴らしい小説だと思います。よくこういう話を考えたものだと、、、。でも最後の数十頁の戦後の話はなくてもよかったような気がするなぁー、少年の死でばさっと終えた方が、、、いつもの批判(?)となりましたが皆さんどう思われるでしょうね?
しかし日本の本の装丁って素敵ですね。フランスの本はこんなです:読まないやつはあっち行けという感じ(笑)。だから12区の本屋のクリップ留め「個人書評」は一層貴重で、、、確かに13区に来てからは本への関心が減って、最近は人がくれた本ぐらいしか読まなくなっていた(それも読みきれていないのだけど、、、)。また12区に行ってみようか。でもピザ屋朝市のブレアのように、私のご贔屓の常で店じまいしていないといいのいですが、心配
そうそう、パリに住む私には、アトリエからさほど遠くない、多少縁のある植物園と歴史博物館も舞台の一つであったのものめり込みの一因かも。作家のアンソニーさんはどう見ても科学少年的なところがあるのだけど彼のサイトの履歴にはそういうことは書いてありませんね〜。