2021年4月12日月曜日

プロヴァンスのジェームズ・ディーン

ジャジャーン、プロヴァンスに忽然と現れた巨大なジェームズ・ディーンの記念碑!

これは上の写真の反対側
かつこれが日本人彫刻家の手になるものでというのだから!!!&???

この石のモニュメントを彫った作家は水井康雄氏、1953年フランス政府給費生としてパリに留学、以後2008年に亡くなるまで生涯にわたりフランスに暮らした。1964年の東京オリンピックの国立競技場、68年のグルノーブルオリンピックの選手村など公共建築を飾る巨大な石の彫刻、レリーフ壁を数々手掛けたというからには名の知れた方なのだろうが、「モグリの美術作家」の私には??? 「ドラ・マールの家」に勤めるLさんに連れて行ってもらい初めてこの日本人作家としての大先輩の存在を知った。リュベロン地方には石切場が幾つもあり、サド男爵の城で有名なラコスト村 Lacoste もその一つで、そこに自ら住居を設計建築した。この地で亡くなったので残された住居の敷地内に数多くの彫刻が残されており、このジェームズ・ディーンの記念碑も敷地内にあるのだ。

とはいえそこは「彫刻の公園」ではなく敷地は放ったらかしにされており、かつ村はずれなので「知る人ぞ知る」。昔行ったことのあるLさんもどこだったのか探しあぐねたのだが、ちょうど「ドラ・マールの家」で同居中のレジダンス・アーティストが「両親の別荘が隣だった」というベルギー人を知っているという偶然があり、その人に電話をして確認、無事にたどり着いた。

水井康雄氏について、そして何故ジェームズ・ディーンの記念碑が庭にあるかは日本語ウィキペディアに詳しいのですべてウィキにお任せです

Note : L'information sur Yasuo MIZUI, le sculpteur qui a réalisé le monument des photos ci-dessus, veuillez vous référer à Wikipedia.

 

 

我々は水井家の敷地内か外かわからないけどその近所の見晴らしの良いところでピクニックをして帰ってまいりました。断っておきますが基本的にはこのビジットは「私有地不法侵入」の疑いが高いので行き方の詳細は差し控えさせていただきます(笑)


2021年4月10日土曜日

プロヴァンスのマチュピチュ

私の英語は名古屋弁だ。というのは例えば have をカタカナにすればハヴと言わずヒャヴと言ってしまう癖(? 少しは直ったと思うが)があって(地下鉄の駅の敷地と化した今はなき我が母校の千種台中学の英語教諭はそう発音していたと思うのだが)、それを大学(東京)に行って初めて「おかしい」と指摘された。その先生は仕方なく(?)理科系の学生に英語を教えていたのだが本当の専門は中南米の文化人類学で、その話になると力が入る。その先生のおかげでインカ文明にひかれ、その頃からずーっと是非一度はマチュピチュに行ってみたいと思うようになっていたのだ。だが最近は超観光化のルポなどを見てその気がそがれてしまっていたのだが、なんとプロヴァンスでこの夢を達成!(笑)

場所は Le Fort de Buoux (ヴウックスの砦)今や山中に孤立した遺跡だが、リュベロン山脈を南北に縦断する唯一の行路の要で町があり、山上にはそれを見張る要塞都市があって、その遺跡に辿り着くには山道を登り、砦の壁についたかと思うと長細く遺跡が連なっていてまだまだ登り最後は絶壁に至る。こうして私はマチュピチュ気分となり、ここを「プロヴァンスのマチュピチュ」と名付けることにした。もちろん私が勝手につけた呼称なので一般には通用しない。だがリュベロンには「プロヴァンスのコロラド」と呼ばれる場所があり、赤・黄・橙の岩壁があり綺麗なのだが「本家」の超々ミニアチュア版で、宣伝文句を信じていくと拍子抜けする。それを考慮するとここをマチュピチュと言っても差し支えなかろうと勝手に「本家」を知らぬ私は思うのである。

さてこの城砦遺跡は今やピーター・メイルの平和な田舎となったリュベロンが16世紀は戦いが絶えなかったのを教えてくれる。

某サイトによると(DeepLで自動翻訳して加筆修正):

「攻めろ」っと命令される兵士でなくてよかった
1530年以降、リュベロン地方で行われたVaudoiseと呼ばれる人々への残忍な弾圧は、16世紀後半を彩った宗教戦争を予感させるものだった。前世紀に荒廃した村々に、土地の再利用を望む地元の領主が呼びかけて、ピエモンテ地方から来て住み着いたVaudoiseの信仰は、その頃ヨーロッパで広まりつつあったプロテスタントに近いもので、1501年に異端とされ、1530年から地元当局によって組織された弾圧は残酷なものだった。リュベロン地方のいくつかの村は破壊され、住民は虐殺され、生き残った人々はガレー船に送られたり、移住を余儀なくされた。1540年の数都市(日本でも観光地として知られるルールマラン Lourmarin を含む)の虐殺は特に記録に残るものだ

 

私のいるメネルブも宗教戦争を繰り返したれっきとした城塞都市だ。結局1598年のナントの勅令まで完全な平和は戻らなかったようで、それを知ると「ナントの勅令」、高校の「世界史」で覚えさせられることはあるとこの歳になり実感。さて写真からその実感ぶりが伝わるだろううか?

注:fb経由の写真のマンホール状の穴は作物貯蔵庫で、岩盤が1m半ぐらいの深さまできれいに丸くくり抜かれている。保存のいいのは蓋までついていた。


Machu Pichu provençal !

Publiée par Eizo Sakata sur Samedi 10 avril 2021