2017年2月22日水曜日

旅行鞄とアート

1/27と前回の投稿で塩田千春と宮永愛子が鞄をモチーフにした作品があることに触れたが、鞄というのオブジェは想像を広がらせる素晴らしい媒体だ。連想ゲームをすれば、鞄(但しここでは小さなバッグではなくて大きな物)から、旅行、未知、未来、希望、あるいは移動、移民、過去、不安などが簡単に思い当たる。つまりプラス方向にもマイナス方向にもほぼ無限大。かつ「鞄」しかないと「持つ人」も空想させるから一層素晴らしい。
だから色々な作品があると思うのだがあまり思い出さないので試しにグーグルしてみたが意外に「ああ、これもあった」というのに出食わさなかった。

というわけで先ずは数年前にタンプロン画廊で見た塩田千春。吊るしものだが、たしか全体が時々ガタンと揺れる。これもウラには移民問題があるように思うのだが、違うのかな〜?(関連投稿)

Chiharu SHIONO

それから宮永愛子のナフタリンの世界(前回の写真と同じ)。「秘められた時」という感じですね。

Aiko MIYANAGA

パリで有名なのは、サンラザール駅の前にある、何でも集積して彫刻にしたアルマンウィキの鞄の塔。こういうくたびれた鞄を見ると連想は米国への移民とか、難民、特に戦時中にドイツの侵攻を逃れてこの駅から発った人々を思わせる。(彼は1928年生)

Arman

しかし今地中海を渡ってくる難民は鞄さえ持っていない。かつ鞄も変わった。今はみんなコロコロだから「四角い鞄」というモチーフ自体が「歴史」を喚起する。

インターネットは鞄の中に布で都市を造ってる中国人アーティストなどが出て来たが無視して(笑)、私の作品。
これは南仏コートダジュールの大別荘地街のゴミ箱に入っていた鞄に廃止路線になった鉄道線路の石とボルトを入れた即興作品。さて何を想像してもらえるだろう? 旅に出たくても旅に出られない、決断できない男の胸の内でしょうか? 放浪を意味する nomade というグループ展だったのだが、、、(2004年)

Eizo SAKATA  (réf archive)


拾った鞄と言えば、「旅行鞄とアート」を検索中、この灰色のよくありそうな鞄がスチュアーデス用のもので、ヴィンテージであることを知った。何処かにある筈と探したらちゃんと見つかり、鍵も閉まるのだが、私が落書きをしたのでその価値がなくなったかも??? かつ2度ほどこれをもって旅行し、飛行機で預けた時にカバーに穴があいてしまった、、、。起死回生で新たな作品に仕立てようか?

Eizo SAKATA

鞄のメッセージは私の取り上げたアーティストの方々への当てつけではありませんのでくれぐれも誤解のない様に。「批判が多い」と思われるでしょうが、私は素晴らしいと思っている作家さんしか取り扱いませんので。

2017年2月18日土曜日

時の視覚化


(sujet principal : les travaux de Aiko Miyanaga à Nara)
前回前々回と続くことになった日本女性作家三傑の最終回、「気配の痕跡を用いて時を視覚化する」* 宮永愛子の巻。
これは現在開催中ではなくて、、、

昨年の秋の帰国時開催されていた愛知トリエンナーレの美術部門が面白くなかったことは既に書いたが(16/10/24)、同時期に奈良でも「古都祝奈良」というイベントがあり、知り合いと遠足、そこで宮永の作品を見た。

ツタに覆われた壁がいかにも歴史に忘れ去られたという風情の布の染物屋の倉庫跡。入ると黒い地面に机と道具が置かれていて、トタンの錆も何とも言えぬ味わい、場所の魅力(?)のみと思いきや、天井を見上げるとまだらに淡い色彩の付いた布がぶら下がっており、机、道具のある所は影の様に色ぬきになっている。この奈良の企画はどこでもちゃんと「説明員」がいて、天井の布は地面に染み込んでいた染料を机の上にあるガラス瓶の中にあった「酢酸」で布へ吸い上げたものとの解説を受けた作品解説サイト


私が彼女の作品を初めて見たのは、塩田千春、内藤礼に比べると最近で、2008年、小学校がアートセンターになった京都芸術センターにて。海外からのアーティスト・レジデンスもしているとのことで、殊勝にも友人作家のF君とJ君の資料を携えて宣伝にでかけたときに丁度個展がなされていた。塩が結晶した糸が張られた空間、もう一つはと時間とともに消えて行くナフタリンのオブジェを飾った空間。その頃私は野外設置で自然に朽ちればよしとする作品制作を多くしていたので、勿論ナフタリンのアイデアにはとても共感を覚えたが、ちょうど「塩のドローイング」の第一期の作品も名古屋のLギャラリーで見せていたところだったので一瞬「やばい!」、宮永愛子は他に何をしているのだろうとかなり心配になったのだった。
だからその後結構フォロー(というか彼女がますます活躍し出したにすぎないが)、 パリの日本文化会館、愛知トリエンナーレ(2010)、そして去年の秋は奈良に加え、京都のセンターも見た。京都では塩田千春とモチーフとして共通するような鍵の秘められた鞄のほか、ウユニ塩湖やソルトレークなどの塩スポットを旅行した写真があって、「あれ、またやられちゃった」(?)という感じだが、人から海水も岩塩ももらっている私には大旅行の余裕はないので、ここはあっさりコンセプトの違いということにしておきましょうか(笑) こういう風に、おこがましいが、私と彼女の作品とは重なる所が多くて、自分のことを書いてしまうのでコメントしにくいのだ。

さて話を奈良に戻すと、「塩、ナフタリン、それに酢酸かー、化学に強いのだなー」と感嘆したのだが、フェースブックの彼女自身の投稿によると酢酸ではなく水で色素を地面から引き出したとのこと(「酢酸」は私に同行の二人も同意してくれているので私の空耳ではありません)。何れにせよ彼女は染色屋倉庫跡のただの黒い地面からその場のかつての歴史を見事に抽出・発掘した。素晴らしい発想ですよ。サイトスペシフィックと唱える作家は多いけど、こういう風に本当の意味で「場所固有」な作品ができる人はなかなか少ないですので。

この「古都祝奈良」というイベントの美術部門では、他には黒田大祐の神社の石が長い人生(笑)を語ってくれるサウンドインスタレーションが奇想天外で可笑しかったけど、地味と言うか、あれをつきあって聞く人は少ないかも。西尾美也の古着とそのボタンを使った作品はキレイだった。展示スポットが離れて点在していて不便と言えば不便だが、愛知トリエンナーレみたいにやたら多くなく、町並みを巡っての作品探しは楽しかった。見た作品がハテナ?でも観光で許してしまえるところがあるのはやはり奈良と言う街の魅力ならだろう。但しお寺の拝観料には閉口しましたが、、、。
 
黒田大祐、西尾美也の作品も宮永愛子の作品も「なかまちアートプロジェクト」という部門でこのリンクのページから作品が見られます

(注意:「古都祝奈良」は10月23日で終わっています)

* 注:これはインターネット検索で再三現れる言葉の引用。「気配の痕跡」ってのがわかるようなわからないようなで、いかにも日本的? 

ところで今パレ・ド・トーキョでタロー・イズミという日本人男性作家が大規模な展示をしています。続けて取り上げた3人の女性作家の東洋的世界観でも村上などのオタク路線でもない、日本的なところを感じさせない不思議でダイナミックな作品に驚かされました。また書こうと思いますが先ずは推薦です。(5月8日まで)

最後に日本離れした私の心を揺さぶる修学旅行生の靴々々:これ自体で日本を表わすインスタレーションになっているような、、、



2017年2月12日日曜日

信じることの感動

(sujet principal : l'exposition de Rei NAITO à la Maison de la Culture du Japon
前回の投稿(Where are we going?)を書いたすぐ後、引き合いに出した女性アーティストの内藤礼がパリのに日本文化会館で個展をしていると教えられた(全然アンテナ張ってないし公式ルートには縁がないので☺)。
さっそく会館のサイトを開いてみると、小さな稚拙な人形が原爆の熱風で変形したガラスコップで佇んでいる写真が出て来た。こんなことで原爆の悲劇と対峙できるのかなとかなり疑問、見に行くことないかとも思ったが、瀬戸内海の豊島の、床から湧き出た水がするするっと流れたり水滴となってコロコロ転がったり、水たまりに衝突したり、その振動で水たまりから新たな流れや水滴が生じでたりするのを眺めるだけのための美術館(大空間)という作品に多分生涯に見た全美術作品のなかで少なくとも5本の指に入るほど感動した私である、「あんな作品作ってしまうと後どないするの?」と思いつつ、16区に行く用事があったのでついでに行ったのだが、、、期待していなかったこともあってか(笑)、これがなかなか良かった。

彼女の作品は「聖域」作り。靴を脱いで灰色のフェルトが敷かれた会場に入ると、薄暗〜い。真ん中の白いテーブルを囲むように天井から見えない糸で小さな金属の球が幾つもぶら下がっている。こういうぶら下がり物が微動だにしないのは、時間が止まったような静けさを感じさせる。テーブルの上は3部構成で中央に例の「原爆モノ」があり、両側には小さな人形が点々と置かれている。3部構成のそれぞれの真ん中には一輪差しがあって、中央には縁日のように小さな電球が数珠になって吊られ、全体としては和らいだ公園の一景かのよう。日本文化会館のサイトにある写真を見た方がはやいと言えばはやいのですが、なんか全体の感じが写真では全然つかめない。。。(それが以上しつこく作品を叙述した理由)

これを「なかなか良い」と思ったのは文化会館の展示ホールを上手く「平和への願い」を表現した聖域化に成功していると思うから。でもそういう「虚構」が何になるかといえばおそらく何にもならない、ただ「信じることの感動」*以外には、、、


というのが私の見た感想だが、メガネを忘れて薄暗い空間では読めなかった会場のパンフレットを今となって取り出してみると、ただの金属球と思われしは鈴でかすかな音がするらしい(私は悲しいかな耳鳴りがあるので聞こえない)。それを吊るしていたのは透明糸ではなく白糸?(老眼の所為かな〜)。私の行ったのはパリの空がもう暗くなった6時過ぎだったが、日中は光に満たされるそうで、、、これだと全然違う印象を持つかもしれない。彼女はそういう「うつろい」を表現する作家なのだ。(だからまた行ってみますか)
コンセプトの面では、私の観察とは少し異なり「死者への悼み」がメイン。「死者も私のように現世に呼ばれ、我々はそれ以降に生まれた人と関係を結んでいるが、ある日我々も地上を去る」という言葉が書かれていたが、これはまさに私の前投稿の一言レジュメの「万物流転」。
「他者の死の忘却に対抗する芸術が、他者と生きる幸福を分かち合う芸術と一つに混ざりあう」という美しい言葉もある。私は彼女の声高に叫ばない曖昧な表現を芸術的には評価するのだが「本当にこれでヒロシマで亡くなった人たちの死の忘却に対抗できているだろうか?」とやはり思ってしまう。こういう歴史的悲劇の前では「芸術」は弱い。彼女の作品に被爆者の証言がカップリングされていたら補完しあって素晴らしい物になるのではないかと思うのだが、会場では私の空想する「証言者ビデオ」のかわり(笑)に豊島の美術館に関するビデオ**が流れていた。。。


*「信じることの感動」と思った展覧会タイトル(émotions de croire)は公式には(つまりおそらく作家の言葉では)「信の感情」だそうです。私の直訳より動詞のアクティブさがなくなり曖昧ですよね。
パリ日本文化会館にて3月18日まで

**豊島の美術館、あれはビデオで見てもね〜。解説に「豊島の美術館は建築が自然と芸術の境界を廃絶し、一つの同一の物とした場所です」という作家の言葉が書かれていたが、本当にその通りです。

この写真にならない展覧会の写真は「影響力膨大」なブロガーとして良い写真を送ってもらえるようメールアドレスを残しておきましたが、送られてくるかどうか? 来たらもう少し充実させますので乞うご期待

内藤礼の作品を初めて見たのは今調べてみると何と1993年に遡る。ロンポワン劇場の2階だったか(?)に白いテントが張られ、その中の様々な白いオブジェが並べられている空間に一人づつ(?だったと思う)誘われる「地上の一カ所」(une place sur la Terre)という瞑想空間的な作品だったが、彼女自身がいて案内するという以外、潔癖な「か弱さ」が際立って私にはあまり、、、その後画廊で見てもピンとこなくて、事実豊島へ行くまでは眼中になかったのですけど(笑) 

これで前述日本女性作家三傑の二人を書いたことになるので残るは宮永さんか、、、。