普通の絵葉書写真と反対側から見たメネルブ村 |
前回書いた私の今の仮の住居は、言うのもびっくり、住んでびっくり、南仏プロヴァンス地方の丘陵の上にあり「最も美しい村の一つ」とされている(日本語になるとこの「一つ」がなくなるようだが(笑))のメネルブ村 (Ménerbes)にある「ドラ・マール Dora Maar の家」なのだ。
メネルブは、ここに来てから日本人にメールで教えられたのだけれど、ピーター・メイルの本の舞台になった村らしくて(といっても私は読んだことがないし、フランス人の大半は知らない)、確かに英米日本人の南仏への憧れを誘いそうな場所で、「仮の我が家」の最上階(日本流の4階)の寝室からの展望は見事で、よっこらよっこら階段を登って部屋に入るたびに、日頃地下生活者の私ははっと息を飲む。
私の部屋の窓からの眺め |
さて、この「お家」の名のドラ・マールとは誰か? 一言で言うと「泣く女」。1936〜43年までのピカソの愛人で、「泣く女」シリーズのモデルとして有名なのだが、ただの「愛人」ではなく、ピカソとの出会い以前にシューレアリストの写真家として活動し優れた作品を残し、ピカソのゲルニカ作成の写真レポートもしている。しかし巨星であるピカソの影になってしまい、やっと最近になって芸術的な再評価がされるようになった。(仔細はウィキでもご参考に。ドラマ的には写真付きのアートペディアのほうが理解しやすいだろう)
このドラ・マールの家はピカソが戦時中に絵と交換で得た(本当なのかなー? 「ものの本」には「戦後にメネルブに家を見に寄った」と書いてあったから盲買い?)。「多情」で愛人をインスピレーションのもとにするピカソはドラから若いフランソワーズ・ジローに乗り換え、彼女は悲嘆から情緒不安に陥り精神病院に拘禁さえされたのだが、それから回復したドラ・マールにピカソはこの家を贈った。そして彼女は一人で1997年に亡くなるまでここで一人で暮らした(といってもパリにも家があり生活の半分はパリだったはず)。またニコラ・ド・スタールが53年にメネルブ村に家を買って近所付き合いがあったらしい(でも彼は55年に地中海岸のアンティーブで自殺してしまったからごく短い間で、息子との方が付き合いが長く続いた)。
ドラ・マールの死後この家はテキサスの富豪に買われ、2006年からアーティストを迎えるレジデンスとして生まれ変わり、ひょんな事情(前回の投稿参考)から私がここにいるのである。
私がドラ・マールのことをシュールレアリスト時代の2、3の写真以上に知るようになったのは、ここにきて豪華サロンで彼女について書かれた数々の本を斜め読みしてからに過ぎないのだが、彼女は20代後半からその頃の知識人・芸術家サークルで一世を風靡しながら、30代でピカソに捨てられた後はかくたる表舞台から消え去った。ピカソには愛人関係で苦しめられたばかりか、写真は本当のアートではないと見なしていたピカソの感化で、秀でた才能を発揮していた写真をやめてしまったという、第三者的にはピカソはドラ・マールをまさに「泣く女」にしたとんでもない不幸の根源なのだが、彼女は人生最後までピカソを愛していたようで、哀れ哀れ、知れば知るほど可哀想になる。何事にも薄情なる私「エイゾウは本当の愛を知らないから」なんて揶揄されることもあるのだが(笑)、こんななら知らなくてよかったと胸を撫で下ろしす次第。
それはともかくこの歴史的な場所、といっても歴史的なドラマはここでは起こらなかった。一線を去ったドラ・マールは心の拠り所を宗教に求め、大邸宅の1階の台所と今は居間の一つとなっている2階の一室でミストラルが吹き荒れているような渺茫たる風景などを描きながら、結局はこの大きな館のごく一部しか使わず孤独で質素な生活を過ごした。とはいえこの家に50年近く居住したという事実:「歴史上の過去の人」と思っていた彼女が1997年まで生きていた、つまりどこかですれ違ったかもしれないというのは不思議な気持ちにさせられる。
「ドラ・マールの家」の今の贅沢さは亡くなった後のもの。ここで私は立派なアトリエまで賄われ、つまりドラ・マールとは比べ物にならない幸せな生活を送っているわけなのだ。そしてパリが新ロックダウンで先週末から「閉鎖」(行動の自由が10km未満)されてしまったので当分この華麗なる生活を続けるしかなくなってしまった。
ところでSMSで「館」での生活ぶりを披露して皆様から羨ましがられているのだが、食事はちゃんと自炊で、もう一人のレジデンス・アーティストと食卓のセッティングをエレガントにして楽しんでいるだけですので誤解のないように。
エスカレートするディナーのセッティング(笑) |
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