2021年3月25日木曜日

ドラ・マールの家

普通の絵葉書写真と反対側から見たメネルブ村
 

前回書いた私の今の仮の住居は、言うのもびっくり、住んでびっくり、南仏プロヴァンス地方の丘陵の上にあり「最も美しい村の一つ」とされている(日本語になるとこの「一つ」がなくなるようだが(笑))のメネルブ村 (Ménerbes)にある「ドラ・マール Dora Maar の家」なのだ。

メネルブは、ここに来てから日本人にメールで教えられたのだけれど、ピーター・メイルの本の舞台になった村らしくて(といっても私は読んだことがないし、フランス人の大半は知らない)、確かに英米日本人の南仏への憧れを誘いそうな場所で、「仮の我が家」の最上階(日本流の4階)の寝室からの展望は見事で、よっこらよっこら階段を登って部屋に入るたびに、日頃地下生活者の私ははっと息を飲む。

私の部屋の窓からの眺め

さて、この「お家」の名のドラ・マールとは誰か? 一言で言うと「泣く女」。1936〜43年までのピカソの愛人で、「泣く女」シリーズのモデルとして有名なのだが、ただの「愛人」ではなく、ピカソとの出会い以前にシューレアリストの写真家として活動し優れた作品を残し、ピカソのゲルニカ作成の写真レポートもしている。しかし巨星であるピカソの影になってしまい、やっと最近になって芸術的な再評価がされるようになった。(仔細はウィキでもご参考に。ドラマ的には写真付きのアートペディアのほうが理解しやすいだろう)

このドラ・マールの家はピカソが戦時中に絵と交換で得た(本当なのかなー? 「ものの本」には「戦後にメネルブに家を見に寄った」と書いてあったから盲買い?)。「多情」で愛人をインスピレーションのもとにするピカソはドラから若いフランソワーズ・ジローに乗り換え、彼女は悲嘆から情緒不安に陥り精神病院に拘禁さえされたのだが、それから回復したドラ・マールにピカソはこの家を贈った。そして彼女は一人で1997年に亡くなるまでここで一人で暮らした(といってもパリにも家があり生活の半分はパリだったはず)。またニコラ・ド・スタールが53年にメネルブ村に家を買って近所付き合いがあったらしい(でも彼は55年に地中海岸のアンティーブで自殺してしまったからごく短い間で、息子との方が付き合いが長く続いた)。

ドラ・マールの死後この家はテキサスの富豪に買われ、2006年からアーティストを迎えるレジデンスとして生まれ変わり、ひょんな事情(前回の投稿参考)から私がここにいるのである。

私がドラ・マールのことをシュールレアリスト時代の2、3の写真以上に知るようになったのは、ここにきて豪華サロンで彼女について書かれた数々の本を斜め読みしてからに過ぎないのだが、彼女は20代後半からその頃の知識人・芸術家サークルで一世を風靡しながら、30代でピカソに捨てられた後はかくたる表舞台から消え去った。ピカソには愛人関係で苦しめられたばかりか、写真は本当のアートではないと見なしていたピカソの感化で、秀でた才能を発揮していた写真をやめてしまったという、第三者的にはピカソはドラ・マールをまさに「泣く女」にしたとんでもない不幸の根源なのだが、彼女は人生最後までピカソを愛していたようで、哀れ哀れ、知れば知るほど可哀想になる。何事にも薄情なる私「エイゾウは本当の愛を知らないから」なんて揶揄されることもあるのだが(笑)、こんななら知らなくてよかったと胸を撫で下ろしす次第。

それはともかくこの歴史的な場所、といっても歴史的なドラマはここでは起こらなかった。一線を去ったドラ・マールは心の拠り所を宗教に求め、大邸宅の1階の台所と今は居間の一つとなっている2階の一室でミストラルが吹き荒れているような渺茫たる風景などを描きながら、結局はこの大きな館のごく一部しか使わず孤独で質素な生活を過ごした。とはいえこの家に50年近く居住したという事実:「歴史上の過去の人」と思っていた彼女が1997年まで生きていた、つまりどこかですれ違ったかもしれないというのは不思議な気持ちにさせられる。

「ドラ・マールの家」の今の贅沢さは亡くなった後のもの。ここで私は立派なアトリエまで賄われ、つまりドラ・マールとは比べ物にならない幸せな生活を送っているわけなのだ。そしてパリが新ロックダウンで先週末から「閉鎖」(行動の自由が10km未満)されてしまったので当分この華麗なる生活を続けるしかなくなってしまった。

私のアトリエ
 
アトリエから眺めた庭


ドラマールの風景画
 

ところでSMSで「館」での生活ぶりを披露して皆様から羨ましがられているのだが、食事はちゃんと自炊で、もう一人のレジデンス・アーティストと食卓のセッティングをエレガントにして楽しんでいるだけですので誤解のないように。

エスカレートするディナーのセッティング(笑)

 

最後にドラ・マールの強さを物語るお言葉(ただし括弧内は私の勝手な解釈による注釈で正しいかどうか知りません):
 
私の運命は、どのように(苦しく)見えても、それは素晴らしい
かつて私は「私の運命は、どのように(晴れやかに)見えても、それは苦しい」と言っていたものだが

 
参考
現代のアーティストレジデンスとしての「ドラ・マール の家」の英語サイト:

 

 

 

もっと写真が見たい方はインスタよりも私のfbをご参考に

2021年3月11日木曜日

10年経って (福島ープロヴァンス)

 10年前、ニースでの展覧会の展示の帰りにエクサン・プロヴァンスの知人宅にお邪魔、3月11日の朝、知り合いが寝ぼけ眼の私に「日本で大地震があったらしいよ」と言って出かけた(地震発生はフランス時間の6時台)。「地震はよくあるし、、、」と思いつつも、その後昼前に南リュベロンの有機農場の知り合いのところに着き、彼らはテレビニュースを見る人たちでないしランチタイムなのだが、「ちょっと気になるから」と見せてもらうことにし、スイッチを入れて現れたのはかつてみたこともない、津波が全てを飲み込んでいくヘリからの映像だった。

そして今日、同じ場所ではないが、私はまたのんびりとプロヴァンスにいる。

今朝はカフェに行って「地方新聞にはどんなことが書かれているのだろう?」と丹念に紙面を見たのだが、福島のふの字もなかった!これにはちょっと驚いた:原発の立ち並ぶローヌ河に近いだけのことはある? 

何がメインの記事だったかというと「テロリズムの犠牲者」。2004年のマドリッドのテロが3月11日で、 ヨーロッパではこの日が「犠牲者追悼の日」となり、今日はマルセイユのサンシャルル駅でセレモニーがあるとのこと。ここで2017年10月に若い二人の女性が刺されて亡くなったという事件があったからだが、私には「そんなことあったかなー?」とほぼ記憶にない。次元の違いはあれ、関係のない人には忘れられる。あとはプロヴァンスの山地に狼が戻って来たという話も見開き2面:私には見事に関係ないので眺めただけ。

ま、フランスの地方新聞ってのはこんなもんです(別に「福島10年後」のニュースを見たい人は全国紙を見れば良いのだから)*

パリで集会などを組織されている皆さんには「頭数だけの応援」もできなくて申し訳ないが、「夕方6時からの戒厳令」が引き続き、頭の調子(これは私の診断)も心臓もおかしい(これは医者の診断に行った時だけ血圧が異常に高い!)ので田舎に避難させてもらっている。

第一弾の避難先は知り合いの田舎Sさんの家だったのだが、2月末にお世話になり始めた早々、急に南仏のP君より電話があり「3月空いていないか?」との質問。「アメリカの財団のアーティスト・レジデンスが招聘作家がコロナの所為でフランスに来れないのでピンチヒッターになりえうる」というのだ。3月は延び延びになっているグループ展があるかもしれないし、医者にも行かねばならないし、折角田舎に来たばかりなのに〜なんて考えてると、P君が「こんな贅沢な話は滅多にない、俺ならすぐ行く」というわけで私も即決定。というのも今まで嘗てP君の持って来た話で悪い話はないのだ(笑)

ロワール地方のSさん宅からパリに帰り、至急「伸び伸びグループ展」用の作品を梱包して運び(「こんな時期にやるなんて気が変じゃないか?」と私だけ以前から反対している。展示は勝手にやってもらう。今のところ「歌う牛」パーフォーマンスの予定はなし)、3日後の朝にはアヴィニョン行きTGVに乗ってやって来たのは名高き「何とかさんの家」なのだが、ここが何処かはまだFBで謎かけをしているのでまた次回に。 FBでは私のドローイングよりその方が断然人気があるし(笑)

私の部屋から。今日は曇りがちなのに「お山」はよく見える
 

さて、最初の話題に戻ると、地震のないフランスで「福島」を通して原発反対を唱えるのはそれゆえに難しい面がある。しかし一方、放射性廃棄物(廃炉も含め)をまともに処理できない以上、二酸化炭素とおなじく「将来に負の遺産を残してはいけない」という論理では同じことと私は思うのだが、現実には二酸化炭素削減が原発の追い風になっているのはご承知の通り。

 

* 後記:全国版夜8時のニュースはどんな扱いだろうとわざわざ見たのだが、ずーッとコロナで待つこと27分、でも福島に関連して仏原発の補助電源に関してだった。。。

 

以下FB掲載の写真:私の部屋からの景色と私の仮の住まい。私のFBは一般公開しているので下のリンクから他の写真も見てもらえます:https://www.facebook.com/eizo.sakata

 

Vue de ma chambre !

Publiée par Eizo Sakata sur Dimanche 7 mars 2021

 

C'est là en haut où je demeure.

Publiée par Eizo Sakata sur Samedi 6 mars 2021