「美は細部にあらず」、印象派や新印象派の点描を引き合いに出さずとも、そんなことあったりまえじゃない? だがそれを今更声高に唱えている(ように思われる)のは、
デヴィッド・ホックニー(David Hockney)と
ダミアン・ハースト(Damien Hirst)。共通点は二人とも超有名アーティスト、イギリス人、かつ今ロックダウン中に生まれた巨大なシリーズ作品を展示中! (ロックダウンは作家にとって悪くなかった:ご存知のように私も(笑)) ホックニーはフランスのノルマンディー地方でイギリスに帰れなくなり(?)、一年の四季の移ろいをiPadを使ってドローイング。バイユー(Bayeux)で見た70m近い歴史絵巻タピストリー
(ウィキ)に影響されて帯状にプリントした作品をオランジェリ美術館で展示している。細部はドットであったり、アプリのお仕着せのブラシ効果であったり。
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ホックニーの花咲く木の細部 |
一方ハーストは満開の桜を2〜3mある巨大なキャンバスに描くが、細部(花)は絵具をべたべたとくっつけた感じ。アシスタントが来れなくなったロックダウン中にこつこつと「自分で」107作も描いたとか。その30点をカルチエ財団で展示中。遠方から見ると迫力あって「綺麗!」ってことになり、今までスキャンダル派だったのに「ダミアン君どうしたの?」と怪訝に思ってしまう。だが先に書いた印象派とかゴッホ、あるいは近年流行のアール・ブリュットやアクションペインティング、そしてかつ色彩サンプルみたいな自らが数十年前に描いたスポット・ペインティングなどを思い起こさせて「絵画史を総括する」と評論家に持ち上げさせる上手い手管で万人受け(?:fbでもたくさん投稿があった)。私ダミアン・ハースト、そんなに大嫌いじゃないんですよ、アイデアマンだし、昔見たハエをいっぱいくっつけた微妙の光沢のあるブラックな作品など不思議に美しくて。だから「今更なんで?」の疑問が解けるかと財団でもらったパンフレットをひもとくと、彼の作品回顧みたいになっているのだが最後の方に某評論家との対談があって、もちろん満開の桜は「かりそめの美しさ」という日本の自然観を背景にしているのだが、評論家が「今ここカリチエ財団に作品が集っているが、展覧会が終わると世界の美術館や財団に買われチリチリバラバラになる。本当に咲き誇る桜の花のようにかりそめの姿ですね〜」それにダミアン君「ほんとだねー」と同意。
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ハーストの花咲く木の細部
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展覧会をしても大多数が出戻りで戻ってくるアーティストの私としては腹たつなー。ただの僻みかもしれないけど気分悪いよ。今までの彼の作品はそれこそ保存性が危ういものや一般人の理解が得られないものがほとんどなので、この桜の大作を世界にばらまいて後世に名を残すつもりなのかなーと我が僻みもリミット超えました。かつこんな華やかな絵ができた一つの理由は「恋してる」からだそうで、、、ばかばかしい(また僻み)。
お二人の作品は明らかに大きさで勝負。もちろんホックニーは彼らしい色彩感と構成力はあるから、ただの凡人が描いたのとは違うがただのイラスト、この程度のもので美術館の回廊を何十メートルも使わせてもらえるのは「ホックニー」だから。ダミアン・ハーストもこれが無名の作家で「投資対象」になかったら「何処で展覧会できたかな〜」という代物ではないか? 良い展覧会をみると「僕も頑張らねば」と気分がしゃんとするのだが、この二つは見てやる気なくなった〜。あれだけの壁つかってみたいよ〜!
僻みに僻んで意固地になっているように思われるでしょ? 実際最近の私は「海水ドローイング」で細部のデリケートなマチエールにこだわる作品を作ってますからねー。考えてみると一見乱暴に見える抽象画の作家の方が意外に細部にこだわっていて、具象画の方が「こんなもんでいいよ」って感じかもしれない(でも我が尊敬するボナールは展覧会場でも筆を入れていたという逸話もあるが)。「美は細部にあらず」、しかし細部に支えられない全体は薄っぺらなものでしかないと思う。かつ本当の花々の細やかさをここまで雑に扱ってもらうと自然をバカにしてっるのかって思ってしまうがどうでしょう。
ところで便利な情報:コロナ下、オランジェリ美術館は予約していかねばならない。時間帯は30分おきで私の予約は「今日はホックニーだけで」と閉館1時間前の5時にした。その20分前に着いてしまったのだが早めには入れてくれない。係員によると5時予約の場合は5時から5時半までが入場時間だそうで、確かに彼女は5時直前に待っている人に向かって「4時半予約の人はいませんか?」と念を入れた。つまり5時に入りたいなら4時半に予約を入れてゆったりくればよかったということになる。これは皆さん知っていた方がいいですね(多分フランスの国立美術館は同じ基準だと思う)。
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何が描いてあるのかさっぱりわからないスーチンの絵の細部 |
ホックニーがあっという間に見終えたので、同美術館で開催中の「スーチンとデ・クーニング」という企画展* も見ることになった。これは「こじ付けの組み合わせ」に思えて行く気がなかったのだが、「デ・クーニングが1950年にニューヨークMoMAでスーチン展を見て大いに影響を受けた」ということを骨子としているだけあって、スーチンの絵はオランジェリの常設品のたらい回しでなく、ピレネーの山村のうねり狂う風景画などのとても良い作品がアメリカから幾つも来ていて見応えがあった。これまたアメリカから来ているデ・クーニングの作品も悪くない。お二人がどれほど細部にこだわったかは分からないが、ピクセルや絵具のべたのせとは細部のパワーが違う。「美は細部にあらず」、でも細部を侮ってもらっては困る。
以下それでも見たい人へ
ホックニー「ノルマンディーでの一年」展
オランジェリ美術館、2月14日まで(美術館サイト)
*「スーチンとデ・クーニング」展は1月10日まで(美術館サイト)
ダミアン・ハースト「開花する桜」展
追記: カルチエは7月のオープニングに行ってあきれて完全無視のつもりだったのが、ホックニーのお陰でテーマができて書く気になりました(笑)
僻んでばかりいないで最後に一つの提案:1日何千人もの訪問者のいるオランジェリーのような国立美術館はせめて5メートルでも美術館は展示作品のクオリティーに責任をとらない「キューレーション外」ウォールとして現代アートのメインストリーム外でこつこつと仕事をしている「無名作家」の作品を1週間ごとに一人展示するというのはどうだろう(広報不要)。こうして作品を数万人の人に見てもらうことができたならもうこれで人生思い残すことないのですが(やっぱり僻みかな?)