2021年11月22日月曜日

素朴なアール・ブリュット

アール・ブリュットまたはアウトサイダー・アートは元来「美術教育を受けず孤立・独学で制作された作品」で、以前は素朴なもの(or/and 脅迫概念的なもの)が多かったのだけど、最近あまり素朴じゃないんだよな〜。
 
この数年来世界中で大流行、日本語でもアール・ブリュットArt Brutで通じるようになったみたいだが、instagramの投稿見ていたら日本の展覧会のポスターで堂々と大きな文字でRとLが間違えられていて、まさしく素朴な大ミスで「あっぱれ、あっぱれ」だったけど、それに反して最近紹介される作品というと、例えば筆跡の繰り返しとかすごく現代アートぽい表現が多くて私は恐れ入ってしまう。キューレーターの人が「現代アートの眼」で作家を掘り出してくるのと、作家の中にも精神を病んだ元美大生とかがいて、範疇が広がったのは良いが嘗てのような「素っ頓狂で楽しくなるナイーヴさ」がなくなったような、、、。

「天空を歩く自然」(1974)
そんな昔のなつかしいアール・ブリュット絵画展がポンピドーセンターの正面にあるセルビア文化センターで開かれている(と思って友達に勧めたらもう終わっていたことが発覚。だから「開かれていた」。それを知る前に書き出してしまったので書き終えます)

2013年にもここではアウトサイダー・アートの展覧会があってこんな記事を書いている。Sava Sekulicはその時に特に目の止まった作家だったが、今回は彼の個展。8年前よりもセルビア・センターも「進化(?)」して前回の何段重ねの展示はやめて横一列、かつ入口ホール、地下そして2階のイベント用ホールの3フロアにわたる充実した展示で、説明やビデオもある。でも気になる「作家の生い立ち」の説明は乏しく、何故かまたもらったカタログ(今回は昔より分厚くて立派)を引用すると:

1902年に現クロアチアで当時オーストリア=ハンガリー帝国領内だった田舎の貧村に生まれ、10歳の時に父親を亡くし、母親が再婚して隣村に行った時に取り残された(その頃の地方の風習だったらしい。その後誰に育てられたかは?)。15歳で同帝国に徴兵されて第一次大戦で前線に出され負傷、片目を失明。17歳で故郷を去り季節労働などをして各地を転々とし1943年にベルグラードで左官の仕事をして暮らすようになる。その前から想像力の発露の方法を探していたが絵を本格的に始め、62年に引退して以降それに専心する。69年までは芸術界とはほぼ隔絶した生活をしていたが、その後見出され70年代には名が知られるようになり、1989年に亡くなった。

「異なった私から出てくるもの」(1960)
彼の不遇さはその頃のバルカン地方の田舎の住人にとってはそれほど特別ではないものだったかもしれないが、芸術的確信を早くから持ち、周囲の無理解、不気味がられて絵を破られたりする嫌がらせに悩まされながらも信念を折らなかった。

彼はCCCとサインするのだが最初のふたつのCは名前の頭文字(セルビア語ではC=S)で最後のCは独学という単語の頭文字、つまり独学サーヴァ・セクニクでそれを自負していたようだ。実際彼は美術学校どころか「学校」というものに行ったことがなく、読み書きも岩に文字を彫って自分で覚えた。絵に関しては彼曰く「先生は自然のみ。他のものは自分の持っているものをダメにする」。

 

 

「赤鹿シティー」(1948)

「母乳源」(1960)

こういうのって私考えても出てこないから楽しいよなー。僕もお乳吸いたくなりますよ♫

 

参考投稿

- 今は亡きボルタンスキーの語った(2011)、アール・ブリュット「アートのユートピア

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