2021年10月26日火曜日

美は細部にあらず?(ホックニーとハースト)

「美は細部にあらず」、印象派や新印象派の点描を引き合いに出さずとも、そんなことあったりまえじゃない? だがそれを今更声高に唱えている(ように思われる)のは、デヴィッド・ホックニー(David Hockney)とダミアン・ハースト(Damien Hirst)。共通点は二人とも超有名アーティスト、イギリス人、かつ今ロックダウン中に生まれた巨大なシリーズ作品を展示中! (ロックダウンは作家にとって悪くなかった:ご存知のように私も(笑)) ホックニーはフランスのノルマンディー地方でイギリスに帰れなくなり(?)、一年の四季の移ろいをiPadを使ってドローイング。バイユー(Bayeux)で見た70m近い歴史絵巻タピストリー(ウィキ)に影響されて帯状にプリントした作品をオランジェリ美術館で展示している。細部はドットであったり、アプリのお仕着せのブラシ効果であったり。

ホックニーの花咲く木の細部

一方ハーストは満開の桜を2〜3mある巨大なキャンバスに描くが、細部(花)は絵具をべたべたとくっつけた感じ。アシスタントが来れなくなったロックダウン中にこつこつと「自分で」107作も描いたとか。その30点をカルチエ財団で展示中。遠方から見ると迫力あって「綺麗!」ってことになり、今までスキャンダル派だったのに「ダミアン君どうしたの?」と怪訝に思ってしまう。だが先に書いた印象派とかゴッホ、あるいは近年流行のアール・ブリュットやアクションペインティング、そしてかつ色彩サンプルみたいな自らが数十年前に描いたスポット・ペインティングなどを思い起こさせて「絵画史を総括する」と評論家に持ち上げさせる上手い手管で万人受け(?:fbでもたくさん投稿があった)。私ダミアン・ハースト、そんなに大嫌いじゃないんですよ、アイデアマンだし、昔見たハエをいっぱいくっつけた微妙の光沢のあるブラックな作品など不思議に美しくて。だから「今更なんで?」の疑問が解けるかと財団でもらったパンフレットをひもとくと、彼の作品回顧みたいになっているのだが最後の方に某評論家との対談があって、もちろん満開の桜は「かりそめの美しさ」という日本の自然観を背景にしているのだが、評論家が「今ここカリチエ財団に作品が集っているが、展覧会が終わると世界の美術館や財団に買われチリチリバラバラになる。本当に咲き誇る桜の花のようにかりそめの姿ですね〜」それにダミアン君「ほんとだねー」と同意。

ハーストの花咲く木の細部

展覧会をしても大多数が出戻りで戻ってくるアーティストの私としては腹たつなー。ただの僻みかもしれないけど気分悪いよ。今までの彼の作品はそれこそ保存性が危ういものや一般人の理解が得られないものがほとんどなので、この桜の大作を世界にばらまいて後世に名を残すつもりなのかなーと我が僻みもリミット超えました。かつこんな華やかな絵ができた一つの理由は「恋してる」からだそうで、、、ばかばかしい(また僻み)。

お二人の作品は明らかに大きさで勝負。もちろんホックニーは彼らしい色彩感と構成力はあるから、ただの凡人が描いたのとは違うがただのイラスト、この程度のもので美術館の回廊を何十メートルも使わせてもらえるのは「ホックニー」だから。ダミアン・ハーストもこれが無名の作家で「投資対象」になかったら「何処で展覧会できたかな〜」という代物ではないか? 良い展覧会をみると「僕も頑張らねば」と気分がしゃんとするのだが、この二つは見てやる気なくなった〜。あれだけの壁つかってみたいよ〜!

僻みに僻んで意固地になっているように思われるでしょ? 実際最近の私は「海水ドローイング」で細部のデリケートなマチエールにこだわる作品を作ってますからねー。考えてみると一見乱暴に見える抽象画の作家の方が意外に細部にこだわっていて、具象画の方が「こんなもんでいいよ」って感じかもしれない(でも我が尊敬するボナールは展覧会場でも筆を入れていたという逸話もあるが)。「美は細部にあらず」、しかし細部に支えられない全体は薄っぺらなものでしかないと思う。かつ本当の花々の細やかさをここまで雑に扱ってもらうと自然をバカにしてっるのかって思ってしまうがどうでしょう。

ところで便利な情報:コロナ下、オランジェリ美術館は予約していかねばならない。時間帯は30分おきで私の予約は「今日はホックニーだけで」と閉館1時間前の5時にした。その20分前に着いてしまったのだが早めには入れてくれない。係員によると5時予約の場合は5時から5時半までが入場時間だそうで、確かに彼女は5時直前に待っている人に向かって「4時半予約の人はいませんか?」と念を入れた。つまり5時に入りたいなら4時半に予約を入れてゆったりくればよかったということになる。これは皆さん知っていた方がいいですね(多分フランスの国立美術館は同じ基準だと思う)。

何が描いてあるのかさっぱりわからないスーチンの絵の細部

ホックニーがあっという間に見終えたので、同美術館で開催中の「スーチンデ・クーニング」という企画展* も見ることになった。これは「こじ付けの組み合わせ」に思えて行く気がなかったのだが、「デ・クーニングが1950年にニューヨークMoMAでスーチン展を見て大いに影響を受けた」ということを骨子としているだけあって、スーチンの絵はオランジェリの常設品のたらい回しでなく、ピレネーの山村のうねり狂う風景画などのとても良い作品がアメリカから幾つも来ていて見応えがあった。これまたアメリカから来ているデ・クーニングの作品も悪くない。お二人がどれほど細部にこだわったかは分からないが、ピクセルや絵具のべたのせとは細部のパワーが違う。「美は細部にあらず」、でも細部を侮ってもらっては困る。

 

以下それでも見たい人へ

 ホックニー「ノルマンディーでの一年」展

オランジェリ美術館、2月14日まで(美術館サイト)

*「スーチンとデ・クーニング」展は1月10日まで(美術館サイト)

 

ダミアン・ハースト「開花する桜」展
カルチエ財団、1月2日まで(財団サイト) 

 

追記: カルチエは7月のオープニングに行ってあきれて完全無視のつもりだったのが、ホックニーのお陰でテーマができて書く気になりました(笑)

 

僻んでばかりいないで最後に一つの提案:1日何千人もの訪問者のいるオランジェリーのような国立美術館はせめて5メートルでも美術館は展示作品のクオリティーに責任をとらない「キューレーション外」ウォールとして現代アートのメインストリーム外でこつこつと仕事をしている「無名作家」の作品を1週間ごとに一人展示するというのはどうだろう(広報不要)。こうして作品を数万人の人に見てもらうことができたならもうこれで人生思い残すことないのですが(やっぱり僻みかな?)

2021年10月5日火曜日

クリストの凱旋門

朝一にニュースラジオを聞くと役に立つことがある。先々週の日曜は「パリは No Car Day です」。びっくりして早速友達に電話をかけた。地方の展覧会に車で連れて行ってもらうのにわざわざ迎えにきてもらうことになっていたからだ。当然彼はそれを知らず、お陰でパリのゲートで足止めを食らうことなく済んだ。そしてこの日曜は「クリストの凱旋門のラッピングの最終日です」

朝から雨、風で斜めぶり。午後には上がるそうだが、まあどんなか想像つくし(実は私は1985年のパリ、ポン・ヌフのラッピングを見ている:その頃は近くのアトリエに通っていたのでほぼ毎日見ていた)行かなくてもいいかという感じだったのだが、日本のファンクラブ代表Mさんに「是非歴史的瞬間を目撃して記録を残して下さい^ ^(ブログ記事希望)」なんてメールもらって、「う〜ん」。あまり気乗りがしなかったのは天候以外の理由もあるのだが、それは後回しにして、、、* 

 フェースブックで色々な人が掲載する写真でもう見た気になっていたが、それらを参考にして「まあ行くなら夕方だろうな」と思いつつ、昼寝(最近過労気味で)をしたら夕方以外のオプションはなくなっていた(笑)

「日没は7時半過ぎ、夕日が当たるには凱旋門広場の一つ向こうの駅までメトロに行って」というプランニングで駅からシャンゼリゼの反対の大通りにでて、凱旋門を見ると、

 おお〜!!! 赤富士でも見るような雄大さあり、かつ布のひだは夕暮れの光に微妙にゆらぐ影を醸し、、、スレっかしの私の心もなんと一挙に高揚ときめきました(笑)

凱旋門は形がシンプルだからラッピングもシンプルで、50mの高さからストっと布の落ちる感じが清々しい。それにぐるっと簡単に回れるロケーションも良いな〜(さすがパリと少々見直す)。と思いつつ回っているうちに日が暮れて、急にライティングがついた時の群衆のどよめき、そして「メルシー、クリスト」のコールと拍手が起きた。後述するような批判も聞いたが、なんだかんだと言ってこれだけ人を集めて(思ったほどの人出ではなかったが、メディアによると総数80万人が訪れた)一部に感動の声を上げさせるのは半端じゃない。




 説明員(?)と少し話したら四角い端切れをくれた(こんな憎いサービスはクリスト企画、場数を踏んだだけのことはある。 85年には説明員はいても布地はもらわなかった)。ご覧のように実物で見るよりシルバーでピカピカ、つまり本物は汚れていた?(笑)というより空の色を映していたのだろう。裏側が青いのは〜?、多分これが視覚に仕掛けた隠し味なのかもなーと想像。つまり写真ではわからないスケール感のみならずその時その場で現物を見ないとわからない空気の漂い、臨場感がある。ランドアートの面目躍如たるものがあった** 

 

 
 

* 以降長くなるが先述のあまり気乗りがしなかった理由:

その一つは1回目と2回目のロックダウンの間にポンピドーセンターで「クリストとジャン=クロード展」てのがあったが 、作品のほとんどはパリの美術館の常設で見られるもの、あとはポンヌフで使われたロープ、布などの機材とかで全然面白くなくて、その中でフルっていたのがエディト・ピアフの「バラ色の人生」で始まり、ジャン=クロードとのラブエピソードが散りばめられた「何だこれっ」って思ってしまう「パリのクリスト」という映画。これはポンヌフのラッピングに至る前の経過のドキュメントなのだが、見た後の感想(面白いのでほぼ1時間のをちゃんと見た)は、クリストの最高の手腕はジャン=クロードをせしめたことではないか? 何たってジャン=クロードの義父は元軍人で高等技術学院の校長で政治・経済界にもすごく顔が利き、ジャン=クロードと結婚していなかったらシラク(当時パリ市長)と面談とか、シラクがダメだからジャック・ラング(当時文化大臣)に助けを求めるなんてことはあり得なかったのでは? 下種の勘繰り、クリストを直に知っているというアーティストのSさんに打診したところ「純愛だったらしいよ」って答えで「ほんとかよ〜!」(失笑) まあ真偽はともかくクリストは政治経済界に太いパイプが引け、ジャン=クロードは階級相応のブルジョワ生活では味わえない「芸術的アドヴェンチャー」に加担することになり二人とも幸せな人生を送ることになったのだ(実際彼女はそのため離婚した)。

ルーマニアから来た貧しきクリストがジャン=クロードの両親に出会ったのは肖像画家として。彼デッサン上手いからね。その得意のデッサンで企画案をドローイングして売り、ラッピング企画自体は自己資金で賄うという新しいアートの経済モデルを打ち立てた。今では経営者みたいな現代アーティストが多いがクリストはその元祖だ(これだけで美術史に残るかも)。この面をアピールしすぎたからかその批判もあって、クリストの凱旋門は自己融資で国民に資金負担はないというけれど、実際にはドローイングを買った企業はメセナとしての免税を受けるからその巨額な免税額を国が埋め合わせるためには結局その分は国(結局は国民)の負担となるというのだ。それはそうだがこれはクリストの責任というより企業メセナ免税制度が問題。私もいつも疑問に思っているのだが、このメセナ制度は当然買う作品が高額の時に効果がある。坂田英三の2000€のドローイングを買っても企業として免税したい額とは桁が違うからこの制度の利用する意味はない。つまり有名アーティストか有名画廊の推薦する作家の高額の作品しか問題にならず、これには値段が高ければ高いほど便利。こうして免税対策として買った作品は投機の対象にもなってまた利鞘を稼ぐ。これはどう見ても「金転がし」の専門家が作った濡れ手に粟のシステムなのだ(これは私見です:美術界に貢献しているからかここまではっきり弾劾した意見は聞いたことがないので)。

まあともかく私は全くの美術作家としての経営能力がないので感嘆するしかないのだが、先週ジャックマール・アンドレ美術館のボッティチェリ展(この種の展覧会ではルーブルであったダヴィンチ展(過去の投稿)のようにボッティチェリの同時代作家とかが半数以上占めることがよくあるのに対し、これは本当にボッティチェリ展だった!だから推薦します)を見たついでにシャンゼリゼから比較的近い画廊街を通ったらクリストのドローイングだらけになっていてその商売っ気にうんざりして、凱旋門まで足が向かなくなった。

 

** ランドアート的には、クリストの作品は「風景を変える」ということに重点を置いて説明されることが多く、それには私は「ふーん」という感じでほぼ関心がわかないのだが、「売り物」の企画ドローイングの美しさと、初期の小さな「モノ」の梱包作品から見ても、今回の凱旋門にしても彼は大いに審美的で、そういうコンセプトよりオブジェとしてのラップされた物体性(環境も入れて)、その魅力に興味があるのではと私は思う。

 

後記:クリストの凱旋門なんて私が書くほどのことはないほどググれば沢山出てきますねー:例えば美術手帖とかCasa Brutasとか。独断と偏見のない一般的なことを知りたい方はリンクをご参考に:私は「一般」に影響されないように当然この投稿を先に書いてから読みましたが、どう見たって私のブログの方が参考になると思うけどな〜(笑)

 

いつものとおり「こんなものにお金かけるよりもっと有用なことに使え」という人は常にいて、正しい側面もあるが、人パンのみに生きず+タデ食う虫は好き好きというのも真実。こういう人はロックダウン中アートがなくなって清々していたのかな? 

 

礼拝する回教徒にあらず。綺麗な写真を撮ろうと。。。

 
これは上述の純愛映画