2015年1月30日金曜日

朝からパニック

vitrine d'une bijouterie
 Je suis paniqué depuis ce matin. On m’a fait rappeler qu'en hiver la rosée se forme le matin sur la vitre de la galerie, de côté intérieur. S’il y a telle humidité, qu’est ce qu’ils deviendront mes dessins à l’eau de mer?  De plus j'exposerai des meilleurs...
 
今朝は7時から起きたのにいきなりパニック。画廊では「死海の水」でガラスの引き戸に絵(?)を描くつもりだったが、日本は湿度が高くて、冬は窓に結露する!!! 当初のプランはあきらめるとしても、そんな状況で「海水デッサン」の塩の結晶は大丈夫だろうか? 湿気を吸って流れ出したら、私のこの2年間の研究の主要成果が台無しになる。あーあ、今まで何故それを思い出さなかったのだろう。今日はこの、街で見つけた宝石店のウインドーの可哀想な犬の様にこわばっています。

2015年1月28日水曜日

名古屋に行くシャーリー・ヘブド

あー、日本での個展、作品はいくらでもあるから準備というほどのこともないといえばないのだが、何でも持って行ける訳でない。今回は画廊に「毎日のデッサン」からチョイスしてもらったが、既に額に入っているものはそのまま運ぶからパッキングに知恵をしぼる。例えば写真は絵を観音開きで見せるという工夫ではなく、大きな額の中に小さな額がぴったり入るようにボール紙を切って固定できるようにしているところ。「作品」より梱包の方が余程手が込んでいる!

展示のメインは「海水のデッサン」だが、それに付随して世界の海水を汲んで来てくれた友達をインタビューしたビデオ、かつ画廊内に「死海」の水でのインスタレーションもする。

そして昨日は新しいシリーズ(になるか?:つまり第一作)の「フランス、名画の旅」のためにモンマルトルまで行って、グーグルマップのストリートビューから私がしたスケッチを持ち、ユトリロの描いた劇場前で写真撮影(実は数日前に行ったのだが、実家にあった1965年の日本での「ユトリロ展」*の時の絵葉書と私のデッサンと写真を組み合わせてみると写真のフレーミングが気に入らなくで撮り直しに行った)。写真はデッサンブログに載せましたので御参考に

加えて画廊ではシャーリー・ヘブド紙がどのようなものであるか、700万部も刷られたかの有名な 1/14日号を手にとって見てもらおうと思う。というのも本物を知らないと事件故に「言論・表現の自由」の活動家の新聞(脅迫にもめげず発刊し続けたからそれはそうなのだが)的な硬派のイメージが出来上がってしまいかねないと思うから。実際はイスラムだけでなく、ローマ法王も、勿論政治家も、すべてを頻繁に「下ネタ」を使って茶化す新聞で(もし私に本当に信仰があればまともに取り合わないだろう)、12人が「暗殺」されなければ世界から注目されるはずのなかったごくマイナーなジョーク紙なのだ(売上げ3万部ほどでそれこそ破産寸前だった)。マイナーぶりはおそらく言葉がわからなくても薄々は感じてもらえると思う。私はかくなる新聞が脅迫されて警官の護衛を要したという社会状況がすでに異常であり、襲撃されたことに大多数のフランス市民がショックと怒りを感じたのはやはり当然のことと今更思う。

*注:この展覧会、小学生の英三少年は見ています。特に感動はしなかったが女性のお尻がタマネギ型だったことは今でも覚えている 。今や自分がパリに住むことなったが、女性の臀部を見て「タマネギのよう」と思ったことは幸いにしてまだない。

個展情報はコチラ

2015年1月27日火曜日

付記

先回の最後に引用したコンドルセの言葉、疲れて翻訳しませんでしたが訳を加えましたので、解らなかった人は見て下さい(記事) このように後で加筆したり、「てにをは」や、それ以前の打ち間違えを直したりして、内容は変わらないけれど読みやすくすることに努めていますので、時々連続して読むのもいいですよ☺ と変なこと書きますが、このあいだ友達に「私のブログの読者は10〜20人ぐらい」と言ったら呆れられてしまって、、、。実は自分でもあきれる。しかし記憶力の悪い私には、自分のことなのに「いつ?何を思った?」が検索できるという「日常的なご利益」もありまして(例えば坂田英三+コンドルセでグーグルすれば前回の記事に当たる)、、、でももう少し読者があってもいいですよね、「切り口」がちょっと変わっていることが多いし。でも逆にそれが幸いしないのか、テロの翌日は100を越した読者(日本の人が安否を心配してくれたのか?)も回を追ってどんどん下がり、コンドルセで普通に戻りました! ☺☺☺

2015年1月25日日曜日

考える力(コンドルセに戻ろう)

ところでフェースブック(FB)でCH紙を襲撃したクアシ兄弟の、父不在、母は自殺という悲惨な境遇(育った環境をもっと詳しく述べねば「悲惨」と思えないでしょうが、本当に「生きるに値する人生」というビジョンをフランス社会は彼らに与えられなかった)のルポsourceをシェアしたところ「貧しいからと言って犯罪 は許されない」という意見が「FBのお友達」からよせられた。「そんな破廉恥な」と一蹴したいところだが、事件以降、「マホメットを冒涜したから罰せられるのは当たり前」とするパリ近郊の学校の子供達の意見と同様、「どうしてそんなことを思えるのだろう?」と想像し「どう答えればいいのだろう?」と考えることをエクササイズにしている。というのも私だって例えば「人種差別の煽動」か「単なるお笑い」かの線引きは釈然としないことが多いし(判断はケースバイケースだろうが、、、)

疑問と言えば、事件翌日(8日)に「テロ犯が身分証明書を車に忘れるなんて変だ」と書いたが、この「?」が「警察当局による陰謀説」の根拠となり、「私はシャーリーでない」とする子供達の間に流布されているらしい (個展の準備でそれどころでないし興味ないので全くフォローしていないが)。そして前回故意に触れなかった、宗教と共和制の下に置く「ライシテ」の原則、私も賛成だが、現政府は思いあまって、従わない子供(+親)達に「罰則」をもって対応するつもりらしい。ヴァルス首相の口から「非国民罪」なんていう言葉まで出て来て、この方向が行き過ぎると、私がしつこく書き続けた「マルセイエーズ」も、(まさかとは思うが、、、)将来歌わないと罰されることになるとも限らない状況になりつつある。一方「日本も狙われるようになりますよ」と書いたのも、、、つまり悪い予感だけが当たって、、、。「言論の自由」を「対テロ」にすぐさま切り替えたオランド、ひどいと思ったのが人気急上昇、これは全く予想外(15日に書いた直感が当たっていたのかもしれないが)。

その政府は当然ながら、過激派のプロパガンダや陰謀説などを拡散する若者たちの情報ソースとしてのインターネットも槍玉に挙げ、その抑制策を考慮しているようだが、「政府高官というのは反抗期がなかったのだろうか???」と思ってしまう。中高校生が先生(権威)の言うことより「異論」に引かれるのは当たり前のこと。そういうものを禁止して「正しい解答」を教えてもダメで、「自ら考える力」を育てるしかないのだと私は確信している。(勿論子供達の誰もが正しい論理を導けるようになる知性が備わっているわけではないが、堂々巡りの混乱した考えしか持てないとしても、少なくとも洗脳プロパガンダに「そうかな?」疑問が持てるようになればそれで十分でないだろうか?)


公教育かつライシテ思想の祖(?)コンドルセ参考は1792年に既にこう述べている
「フランス憲法、それに人権宣言ですら、如何なる階級の市民にも、天から降りて来た崇拝し信じねばならぬ石板として指し示してはならない」

こんないいことも言っておりました(ほぼ私が上で批判したことでは!?) 

"la puissance publique ne peut même, sur aucun objet, avoir le droit de faire enseigner des opinions comme des vérités, elle ne doit imposer aucune croyance [...] Son devoir est d'armer contre l'erreur, qui est toujours un mal public, toute la force de la vérité, mais elle n'a pas le droit de décider où réside la vérité, où se trouve l'erreur"   (Condorcet et l'instruction publique)

以下直訳:
 「国家権力は、如何なる目的の為にも、自説を真実として教えさせる権利はない、如何なる信念も課してはならない ... その義務は常に公共の害となる誤りに対して真実の力を守ることであるが、何処に真実があり、何処に誤りがあるかを決定する権利は持たない」
 

2015年1月20日火曜日

悪魔の弁護

毎日のデッサン「メフィストフェレス」
どうもフランス人はシャーリー・ヘブド紙(CH)を大衆あげて擁護したことで、「言論の自由」の名の下で勝手を言い放題、傲慢だと日本人を初め外国人に思われているようである。

「言論の自由」、それががいかに歴史的に闘いとられて来たか、そして如何なる価値を持つか、そして現在の世界状況で云々の「正論」を私には述べるだけの資格も能力もないし、かつ多くの知識人が書くだろうからここでは殆ど触れないことにする。かつ私はいくら「正義」を述べてもを歴史・文化を共有しない人には説得力が少ないと思うから、次の「一般的な了解事項」からの「フランスの言論の自由」の弁護を試みようと思う。

1)「言論の自由」は無制限ではない 
2)いくら「冒涜的」デッサンとしてもそれゆえに殺人(あるいは死罪)が許されると思っている人はいない。

「いない」と断言したいが、残念ながらごく稀にはいる。しかし以上の二点にはほぼ100%の人が了解してくれるだろう(と期待する)。

この常識的見解の真ん中を取ると、人を侮辱するような言論は罰しましょうということになる。フランスでも実際罪になるし、その規制が甘いということはない。
但し個人の中傷、人種差別の煽動は罪になるが、宗教批判は許される。これが今回問題になった。

多分これも圧倒的多数の人に同意してもらえると思うが「政治権力への批判は許されるべき」 というのも、どこの国でも往々にして権力は腐敗するのが歴史の教訓だから。そしてほぼ常に宗教は権力側だった。前述したように克明な歴史的説明は他の人に任せるとして、こうした背景があるから「宗教批判」は許されるのだと私は思う。これはフランスの歴史の産物、国内法としては妥当なのだが、その弁護に欧米型民主主義の普遍性、進歩史観を主張しすぎると、他国を「後進社会」と見下すような変なことになる。
(実はフランスでは政教分離を明確にし共和国制を宗教の上に置く「ライシテ」という原則があるが、これも専門家に任せることにしてここでは故意に触れない)

さてCHの風刺画に戻ろう。実は金曜日にあるパーティーに行って20人以上の人に、今で知らぬ人がいない「すべては赦された」に関し、誰が誰を赦したと思うか尋ねてみた。答えは色々、なかなか興味深かったのだが(後日書くかも)、話しながら、「ああこの人たちは『神の冒涜』というは全く考慮にない」と実感した(勿論私も同様)。もともとCHの風刺画はイスラム関連であろうがなかろうが「ニュース、現代社会」の風刺、批判、諧謔、茶化しであって、「神を信じるなんてばからしい」というスタンスはあっても「宗教性」とは無縁、何が言いたいかと言うとCHの記者たちには「風刺画がどれほど教徒を傷つけるか」は想像できていない。「預言者の像を描くことがイスラム教徒にとっては冒涜なを知りながら、それはないでしょう」と言われるかもしれないが、非イスラム教徒にとって預言者の像を描くことが、どのように教徒を傷つけるかを想像することは不可能(貴方はできますか?)。つまりもし傷つけているとしてもそれは全く目的ではない。敢えて言えば「過失傷害」であって、故意に特定の人種を傷つける為に「ヘイト」を煽動しているのとは全く異なる。目的をもって傷つける者は罰せられるべき(フランスの国内法ではヘイト演説は罰則の対象になる)だが、風刺画による「過失傷害」は情状酌量となって然りと考えられないだろうか?
 
繰り返しになるが、「言論の自由」が無制限だと思っている人はいない。批判されて気分を害さない人はいない。しかし人を傷つけるからといって発言を禁止する社会、または自発的に「言わないことにする」社会で失うものと、人を傷つけるかもしれないが「批判する権利」を守る社会とどちらが失うものが多いか、あるいは住みやすいかを比べると、私は明らかに後者の方を選ぶ。そのモデルをフランス社会は選択した(歴史的には勝ち獲った)。これは絶対的な真理ではなく、「社会モデルの選択」なのである。そしていかに互いに批判し合い嘲り合うことの多いけんか腰の社会としても、「私たちはこの方が良い」と巨大デモの大衆は「言論の自由」擁護の側についた(私も)。

さて、この「悪魔の弁護」、納得してもらえるだろうか? 納得してもらえなくても「あーあー協調性のない可哀想な人たち」と寛容に見てもらえれば目的はかなうのだが。

2015年1月15日木曜日

テロなんて怖くない!(勇気を下さい)

先週から我が家の扉に張られているデッサン
「マルセイエーズの歌詞はたびたび問題になるけど、こんな事態に何を言っているのか」と私とテロ事件とのズレ具合に呆れられる方も多いだろう。自分でも何故こんなに執拗にこだわったのか不思議なのだが、思い当たるとしたら、おそらくあの「追悼の集会」と私が思っていたデモでの大衆の血なまぐさい歌詞の合唱をきいた時、政治レベルで「言論の自由」から「対テロ戦争」に流れが変わったのに大衆が呼応したと直感したからではないかと思う。

前回は「フランス人は気分が高揚するとマルセイエーズを歌う人々」と結論したが、「気分を高揚すべき折にマルセイエーズを歌いだす人々」とすればより容易に納得してもらえただろう。つまりマルセイエーズはニュージーランド・ラグビーチームの「ハカ」:「相手に負けないぞ」と自らを鼓舞するもの。この方が歴史にも合っているし、日曜日にレパブリック広場に集まった群衆も、私は追悼の場に相応しくないと思ったのだが、彼らにしたら「テロなんて怖くないぞ!」と自らの勇気を奮い立たせた。

告白すると私も何故かマルセイエーズを聞くと気分が高揚する。 私はズドンと一発は怖くないが、拷問されたらどうしようと思う(これはほぼ子供の時からの悪夢)。ひょっとしたら失神するまでマルセイエーズを歌い続けたら耐えられるかもしれない(夢の中でも)。
と少し今日はマルセイエーズと和解しました。


ところで昨日の発刊されたCHの漫画、関口涼子さんの模範的解釈を教えてもらった:

「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題 

http://synodos.jp/international/12340/2


すばらしい! でも翻訳の要らない仏人のどれだけの人が、仏語圏イスラム教徒の何%が関口さんのような解釈ができたか? (実際気になって Tout est pardoné でひっかかってくる仏語ニュースサイトを幾つか見たが「誰が誰を赦したか?」を彼女の様に書いている記事には行き着かなかった。見たら教えて下さい)

私は昨日 pardonnerを「許す」と訳してしまったが、これは単純に漢字能力のなさで、、、お許しを。

しかしなかなか本論の「言論の自由」に到達しない、、、 これは関口さんのような方にまかせ、わざわざ僕が書かなくてもいいかという気もして来た。

2015年1月14日水曜日

(歴史的日曜の後に思う)フランス人とは何か

昨日マルセイエーズのことを書いたが、今日首相のヴァルスが国会で熱弁を振るい(抜粋しか見てないがなかなか説得力、迫力があった)、全員が拍手。その所為かその前か忘れたが、議員全員でマルセイエーズを歌うという光景が見られた(何と第一次大戦終締結時以来とのこと!)。

つまりマルセイエーズが虐殺事件の後にそぐわないと思うのはどうも私ぐらいのようだ。

でも歌詞、例えば普通歌われない3番から抜粋すると
「何と! 外国の軍勢が我らの故郷に来て法を定めるだと!
何と! 金目当ての傭兵の集団が我らの気高き戦士を打ち倒すだと!
下劣なる暴君どもが我らの運命の支配者になるなどありえない!」
これに加えてお馴染みのリフレイン(前回の投稿参考)

アフガニスタンやマリのイスラム原理主義者が歌っても不思議ではないと思いません?(マルセイエーズだと言わずにほぼコピコレして使えばそれこそイスラム過激派の煽動的文書として使える)

この歌詞の意味を離れて完全なる共和国の「シンボル」としてこの歌を受け入れられない限りフランスでは異邦人でとどまらざるえないだろう。サルコジ時代に「フランス国民のアイデンティティ」がどうのこうのとかしましく言われたが、「フランス人は気分が高揚するとマルセイエーズを歌う人々の集まり」と定義できるのではないだろうか。

ところで今日は「シャーリー・エブド」が襲撃殺害事件にもかかわらず発刊された。このような状況でも仕事をした人たちを讃える意味もあるが、それ以上にどんな内容なのか知りたいので買いに行こうと思ったが売れ切れらしい(何百部も刷ったので明日明後日には手に入るはず)。
昨日からもう第一ページの風刺画は決まっていて、「私はシャーリー」と書いたメッセージを持った涙を流したマホメットが「すべては赦された」と言っている。こんな説明をして絵を掲載しないのは、イスラム教徒に遠慮しているのではなく、私はこれがあまり好きでないというか、何が言いたいのかピントこないから。「言論の自由」の旗印になった同紙がどんな風刺を、支援しようとする何百万人もをあきれさせるような毒舌ができるのか(あるいはしないのかが)知りたい。前述のことでお分かりであろう、私なら覆面を被った二人組が「進もう 進もう! 汚れた血が我らの畑の畝を満たすまで!」と歌っている漫画を編集部に提案するが、、、 あーあ、これで私は一般国民にも睨まれ、FNにもイスラム原理主義にも狙われて、、、というのはすべて強がり。「私のシャーリー」は次のビデオなんです

2015年1月13日火曜日

流れるべきはインク

流れるべきは血ではなくインク
   Revenant de la manifestation historique que j’avais loupé, j’ai regardé la télé. Même si c’est émouvant de voir autant de gens descendus dans les rues, il y a deux choses qui me laisse complètement perplexe.
  Primo :  comment peut-on chanter la parole sanglante de La Marseillaise dans la pareille circonstance après les mares de sang ? 
  Secondo : pourquoi les victimes sont des héros?  Selon moi, surtout dans le cas des quatre victimes dans le Hyper Cacher, c'étaient la mort absurde. C’est justement ça qui me rend en colère contre les terroristes.

  Note : Désolé, comme d'habitude, ce n'est qu'un bref résumé de mon texte japonais. Pour savoir plus, il vous suffirait de m'inviter au dîner ☺

日曜日にヴォルテール広場近くで立ちん坊でずーっと待たされたことは報告したが、後でメディアを見てわかったことには本当に「海外のお客様たち」が間近におられた。あのビデオの左奥の方に11区の区役所があり、そこで全員1分間の黙祷をしたとのこと。知らなかった、、、。それを早く言ってくれれば避けたのに。

実際あの界隈では大勢の人が何処へ行けば良いかと通りを右往左往していて、それだけで疲れてしまった人も少なくなかったはずだが、そういう馬鹿げた光景は絶対にテレビでは(当たり前と言えば当たり前だが)報道されない。報道トップは当然「海外のお客様たち」だが、知らぬ間に「言論の自由」を守る為とは思えぬメンバーになっていて、、、。

それ以外にもその晩のテレビニュースを見て思う違和感があった。これは私が日本人だからだろうが、先ず犠牲者をともらう集会で人々が「マルセイエーズ」を歌い出すこと。5分間の殺戮で地の池に沈んだ記者達を考えながらあの血なまぐさい歌詞*が歌えるのが私には不思議中の不思議。歴史的な物だから「意味されるもの」のないただの「音」となっているのだろうか? この歌詞は時々は問題になるのだが、人々がこういう状況でも自発的に歌い出せ、それが感動的なこととされることへの驚き。

それから「犠牲者」が「ヒーロー」とされること。殺されたジャーナリストは多少の「因縁」があるだろうがそれでも、警官は職務で偶然、買い物のユダヤ人4名はただ居合わせただけだから特に、私はこれらの死は「犬死」だと思う。そして私は彼らが「犬死」をしたからこそテロへの怒りが込み上がるのだ。

(「ヒーロー」には賞賛するしかない。すごく考えて好意的に解釈すると、この惨事により「世界」が変わり、それで彼らが「ヒーロー」になるということだろうか?)

以上の二つの私見、良きフランス国民や犠牲者の家族には「ショック」を与えるものかもしれない。でも私はここで「自分の持つ違和感」を節度を持って書いている。そしてこういうことが可能なのは「言論の自由」があるからであり、その方が「国歌を歌わないから」ととやかく言われる社会よりよっぽど暮らしやすい社会だと思う。

(ただしフランスでも数年前アラブ人系のサッカー代表選手たちがマルセイエーズを歌わないと批判があった。「我々グラディエーターじゃありませんから」と反論する選手は残念ながらいなかった)

*注:有名なリフレインのところだけでも:
「武器を取れ 市民らよ 隊列を組め 進もう 進もう! 汚れた血が我らの畑の畝を満たすまで!」


2015年1月11日日曜日

歴史を逃した私 Je loupe le RV historique

En bref, personnellement (donc ce n’est pas important de tout), j’ai été à coté de la plaque cet après-midi. On attendait, attendait, et attendait de participer à la manifestation historique près de Place Voltaire… (voir la video)


今日のデモ、大成功だったようだ。夜のニュースではパリで120万から160万人が集まる「歴史的な日」となり、私が危惧した事件どころか、文物破壊行為すらもなかった。素晴らしいことだ。しかし私的には(だから全く重要ではないが)、今朝書いた パリ・テロ事件の波紋(2bis)で「海外からのお客様」にちょっと嫌みを言ったのが祟ったか、欲求不満となる「変なデモ体験」となった。

Finalement j'y ai participé
 デモは3時からレパブリック広場でということだが大変な人出に違いないので、2時半にバスチーユで友達と待ち合わせた。だがバスチーユ行きの地下鉄は超満員で乗れそうもない。だから予定変更、リヨン駅から北進してデモコースの中心あたりのヴォルテール広場に向かったのだが、直接行けるLR大通りが閉鎖されている。大回りをして目的地に向かうが、逆進してくる人が多い。ヴォルテール広場も閉鎖されているらしい。今更バスチーユ経由でレパブリック広場に行く気もしないし、デモの先頭の「代表団」が通過すれば閉鎖も解かれるだろうとの予測でヴォルテール広場に着いたのが3時過ぎ。人が集まっているが数十分経っても何も変化がないので近くのカフェで待機(大休憩)。4時過ぎ(?)に変化が見られた:「拍手」。木に登っている人によると大統領や海外の首脳陣が広場に来て、そこからバスで移動しているとか。デモコースでもないLR大通りが閉鎖されていたのはその所為らしい。それから最初のデモの列が着いてヴォルテール広場を歩いているらしい(これも木登り人情報)が、私たちの状況に全く変化なし。欲求不満はますますつのり、ビデオの「歩きたいよ〜」「柵を開いてくれ〜」というシュプレヒコールになった。
本当のデモ行進は犠牲者の弔いの意味があるので静かなのが特徴だったが、、、。

その後やっと行進に参加させてもらったが、、、(写真)
マスコミによると、多くの参加者には「自由・平等・博愛」の共和国を守る荘厳な行進だったらしいが、言論の自由のもと、こうしたずっこけ報告もあっても当然よいでしょう。

最後に少し良い話を。今日のデモは家族連れも多かったのですが、「憎しみではなく愛を」というプラカードを見て小さな子供がお母さんに「憎しみとは何?」と尋ねた。憎しみという単語を知る前にデモに参加ってすごいと思いません?

パリ・テロ事件の波紋(2bis )

今朝起きているとメルケル、カメロンどころかイスラエル首相のネタニアウまで来ることになっていた。結局オランド君の下に集まる首脳陣は「言論の自由」より「反テロ」。事件以降「テロとの戦争」だと言われるようになったが、私はこの言葉が嫌い。いつでも「戦争」を理由に「言論の自由」が抑圧されるのだから。

日本の方にわかってもらいたいのは、フランスの出版社が狙われたのは、当然フランスがマリの原理主義者の南下に武力介入し、アフガニスタン、イラク、シリアにも軍を派遣しているから。ここでフランス国の介入理由の正誤は問わないとして、日本も「自衛隊」を問題地域に派遣するようになったらイスラム過激派の標的になりうる。安倍政権支持の国民はそれだけの覚悟があるのだろうか?

2015年1月10日土曜日

パリ・テロ事件の波紋(2)

明日の3時から「私はシャーリー (Je suis Charlie)」を合言葉にした巨大なデモが行われる。大統領、内閣、歴代大統領・首相の立ち会いはもちろん、ドイツのメルケル、イギリスのカメロンまでやってくる、想像を超える規模のものとなる。我々庶民も何万人も集まるだろうが、今回の犯人のようなファナティックな自殺的テロ志願者はいくらでもいるのが現実、だからこれを行うことだけですらかなりのリスクはある。私はその意味仏政府、警察、立派なものだと思う。明日事件(惨事)が起らないことを祈るばかり。


明日のパリを前に今日はフランス各地でデモがあり、全土で70万人が集まった。写真はニースの海岸通りを埋め尽くした2万3千人の人たち。すごい!
(ニースはFN支持者が多いのだけど)

ところで前回書いたことに関し、内閣のFN除外方針は変わらないものの、私の声が聴こえたの如く、オランド君(大統領)は昨日の朝すでにデモの市民参加性を訴えた(私とトッチャン坊や、二人とも軟弱なのになかなか意見があわなかったのだが、今回初めて意見が一致!? でも市民の集会が知らぬうちに首脳会談イベントになって変な気もするが、、、)
私も呼ばれてないけど一市民として参加させて頂きます。


2015年1月8日木曜日

パリ・テロ事件の波紋

昨日、風刺画が売り物のフランスの週刊新聞「シャルリー・エブド(Charlie Hebdo)」の事務所が7日、自動小銃を持った男らに襲撃され12人が殺害された(内2人は警官)。新年初の編集会議が狙われ、風刺画家であり発行人のCharb、フランスを代表する風刺画家のWolinskiとCabu、経済学者のBernard Marisという中心人物がテロの犠牲となった。
「阿呆どもに愛されるのはツライ!」
同紙はモハメッドのイラストを何度も載せてイスラム団体などに批判され、2011年には事務所に火炎瓶が投げ込まれたこうした脅威に対してCharb氏は「ひざまずくぐらいなら立ったまま死ぬ」と予言的なことまで言っていた)。事件の経過は当然日本で報道されているでそちらを参考にしてもらうことにするが(例えば一般的に朝日新聞そして日本の方には馴染みのないこの風刺新聞に関する日本語解説はこちら)、
この明らかに計画的なプロの殺し屋風の襲撃だったにもかかわらず、乗り捨てた盗んだ車にDNAの跡(髪の毛かな?) のみならず一人の身分証明証まであり、なんか変に思われる。今のところその容疑者兄弟は警察網に包囲されていると言えどまだ逃亡中。

「自由・平等・博愛」を体現するフランスで起きた、おそらく(確実に)フランス人のイスラム過激派の犯行(フランスから約千人の若者がシリアに聖戦に行くという驚くべき背景もある)のショックはフランスのみならず、同じ問題を抱えるヨーロッパ各国の動揺は日本では考えられないほど大きい。
パリ、あるいは仏、ヨーロッパ主要都市では既に昨晩から市民が広場に集まり、テロに反対する連帯精神を示している(こういうところはフランス、ヨーロッパは素晴らしい)。そして日曜日の午後には政府が「挙国一致」のデモを呼びかけたのだが、呼びかける政党から極右のFNを「共和的政党ではない」という理由で外すことにした。勿論私はFNは人種差別政党と思うが、前回の選挙で20%以上の支持率があり議員までいる(参考記事:3/3)。当然外せば党首マリー・ルペンはそれみたことかと旧政党を逆に反動的と批判するし、参加させれば普通の政党としての「お墨付き」を与えることになる。かくなる愚かな罠にはまってしまったのだが、もともとこの「言論の自由を踏みにじるテロ」に反対するデモにどうして政党主義が必要なのか? 反対する個人(市民)として呼びかければどの政治家も来ないではいられないのに。今からでもそうした方がいいと言うのが私の提案。
生粋の左翼の人には嫌われるでしょうが、それでマリー・ルペンが来るのはこの今致し方ないと思う。
彼女は「イスラム教徒と過激派を混同してはいけない」と言いつつ、「死刑復活」を国民投票にと得意の攪乱戦略にでているが、極右も過激派も全員で「寄り切って押し出す」しかない。
その「死刑の廃止」の立役者ミッテラン時代の法相 Robert Badinterが「ジャーナリストは言論の自由の最前線にいる。彼らが襲われたのは我々の自由が標的となっているのだ」ということを言っていたが、まさにその通りだと思った。

2015年1月2日金曜日

セーヌの美女

昨日の話、最初は裏覚えで書いたのだが、あとでラジオのサイトで聞き直したら、当然20世紀初頭と思っていたのだが21世紀???(にヒアリングの不確かな私には聴こえる) なら写真でよくない? デスマスクを取っておくのが習わし? 等々と不思議に思ったが昨晩ちょっと文章を修正した。でも変に思って今朝グーグルしたところ、この女性のデスマスク、仏語ウィキは勿論、日本語ウィキペディアにあるぐらいこれは有名だということが判明した。それによると女性が身を投げた時代は19世紀末らしい。デスマスクはあまりもの美貌に係員が勝手に取った?(ように判断されるが、そんなことあっていいのか?)。スエーデンでなくてノールウェイ? というわけで疑問がますます増えたが探求はあっさりここまででやめ。

フランス人は食卓で技術を磨くのか、概して会話が上手い。多分ラジオのデコワン氏も私が「お話おじさん」と呼ぶ範疇の、話術が上手過ぎて、細かいところでは口を滑べらせる人のようだ(同じ番組でも「田舎の近親相姦」を調べた女性は口べたで、ええっという話題なのに興味が持てなくなるのが対照的だった)。

ところでこのブログではよくウィキをリンクさせるが、ウィキペディアに絶対の信頼をよせている訳ではない。ここで普通引用するのは有名人(特に芸術家)に関してなので極端な間違えや偏向はないし、不正確だと批判されることが多いウィキですが、ともかく全く知らない場合には絶対に便利だと思っています。

2015年1月1日木曜日

ちょっといい話、だろうかわかりませんが

今日元旦のパリは快晴、不思議な飛行機雲が
昨日の大晦日、出かける支度をしていた時にラジオで聞いた話:

20世紀初頭にうら若ききれいな女性(17-18歳ぐらい)がセーヌ河に飛び込んで自殺した。死体は引き上げられ死体公示所に運ばれたが結局身元不明で、デスマスクが取られた保存された。何十年も後、スエーデンの会社が口移し人工呼吸のデモ用のマネキンの顔を探していた。現実に生きている人の顔は使い難かったらしく、パリの公示所に美しい顔のデスマスクがあることを知り、わざわざパリまで足を運んで選ばれた。このモデルは今でもデモ用に使われている一つだそうで、こうして、おそらく失恋のショックで身を投げたのであろうこの若き娘は世界で最も数多く接吻されることとなった。

キス集めアーティストの私は当然「素晴らしいなー」と思ったが、、、新年早々縁起でもないでしょうか?
フランス語がわかる方は次のリンク、「三面記事」がテーマの番組の14分35秒ぐらいからのところです。http://www.franceculture.fr/player/reecouter?play=4974648

少し口の中にシャンペンの匂いが残る今日のお昼はこのあいだ頂いた名古屋名物「きしめんの味噌煮込み」を作ることにした。お雑煮とはほど遠いが少し「お正月」っぽいような気になりました。

謹賀新年 Mes Voeux

Plupart de lecteurs de ce blog devraient avoir reçu mes vœux avec mon dessin de la chèvre et le mouton. Mais il semble que pratiquement personne n’a compris ce qu’il se trouve entre les deux animaux. On me demande si c’est un caca… Oui, une sorte de…  J’ai pensé que c’est compréhensible par rapport au texte, je n’ai pas vérifié, avant le dessiner sur l’Internetcomment il est.

Alors, voici la version photo montage. J'ai bien peur que cela n'ait l’air d'une propagande de l’extrême droite (ou le gouvernement japonais ) ? Vous n'avez toujours pas compris, parce qu'il est trop petit???  Bon...
Souhaitons vivement la paix pour l’année 2015.
 
このブログの読者の方のほとんどはメールで私の年賀デッサンを受け取っておられると思うが、ヤギとヒツジの間に何があるのかわからなかった方が殆どのようだ。中には「臭いもの」だと思う人もいて、、、。確かに臭いものにはちがいないのだが、文脈から察しられるだろうとネットで写真を確かめることもせず適当に描いたのはよくなかった。でもここまですると右翼(政府?)の煽動みたいでないですか?(えっ、貼付け写真が小さいからまだわからない?)
2015年平和な年になりますように!