2015年1月20日火曜日

悪魔の弁護

毎日のデッサン「メフィストフェレス」
どうもフランス人はシャーリー・ヘブド紙(CH)を大衆あげて擁護したことで、「言論の自由」の名の下で勝手を言い放題、傲慢だと日本人を初め外国人に思われているようである。

「言論の自由」、それががいかに歴史的に闘いとられて来たか、そして如何なる価値を持つか、そして現在の世界状況で云々の「正論」を私には述べるだけの資格も能力もないし、かつ多くの知識人が書くだろうからここでは殆ど触れないことにする。かつ私はいくら「正義」を述べてもを歴史・文化を共有しない人には説得力が少ないと思うから、次の「一般的な了解事項」からの「フランスの言論の自由」の弁護を試みようと思う。

1)「言論の自由」は無制限ではない 
2)いくら「冒涜的」デッサンとしてもそれゆえに殺人(あるいは死罪)が許されると思っている人はいない。

「いない」と断言したいが、残念ながらごく稀にはいる。しかし以上の二点にはほぼ100%の人が了解してくれるだろう(と期待する)。

この常識的見解の真ん中を取ると、人を侮辱するような言論は罰しましょうということになる。フランスでも実際罪になるし、その規制が甘いということはない。
但し個人の中傷、人種差別の煽動は罪になるが、宗教批判は許される。これが今回問題になった。

多分これも圧倒的多数の人に同意してもらえると思うが「政治権力への批判は許されるべき」 というのも、どこの国でも往々にして権力は腐敗するのが歴史の教訓だから。そしてほぼ常に宗教は権力側だった。前述したように克明な歴史的説明は他の人に任せるとして、こうした背景があるから「宗教批判」は許されるのだと私は思う。これはフランスの歴史の産物、国内法としては妥当なのだが、その弁護に欧米型民主主義の普遍性、進歩史観を主張しすぎると、他国を「後進社会」と見下すような変なことになる。
(実はフランスでは政教分離を明確にし共和国制を宗教の上に置く「ライシテ」という原則があるが、これも専門家に任せることにしてここでは故意に触れない)

さてCHの風刺画に戻ろう。実は金曜日にあるパーティーに行って20人以上の人に、今で知らぬ人がいない「すべては赦された」に関し、誰が誰を赦したと思うか尋ねてみた。答えは色々、なかなか興味深かったのだが(後日書くかも)、話しながら、「ああこの人たちは『神の冒涜』というは全く考慮にない」と実感した(勿論私も同様)。もともとCHの風刺画はイスラム関連であろうがなかろうが「ニュース、現代社会」の風刺、批判、諧謔、茶化しであって、「神を信じるなんてばからしい」というスタンスはあっても「宗教性」とは無縁、何が言いたいかと言うとCHの記者たちには「風刺画がどれほど教徒を傷つけるか」は想像できていない。「預言者の像を描くことがイスラム教徒にとっては冒涜なを知りながら、それはないでしょう」と言われるかもしれないが、非イスラム教徒にとって預言者の像を描くことが、どのように教徒を傷つけるかを想像することは不可能(貴方はできますか?)。つまりもし傷つけているとしてもそれは全く目的ではない。敢えて言えば「過失傷害」であって、故意に特定の人種を傷つける為に「ヘイト」を煽動しているのとは全く異なる。目的をもって傷つける者は罰せられるべき(フランスの国内法ではヘイト演説は罰則の対象になる)だが、風刺画による「過失傷害」は情状酌量となって然りと考えられないだろうか?
 
繰り返しになるが、「言論の自由」が無制限だと思っている人はいない。批判されて気分を害さない人はいない。しかし人を傷つけるからといって発言を禁止する社会、または自発的に「言わないことにする」社会で失うものと、人を傷つけるかもしれないが「批判する権利」を守る社会とどちらが失うものが多いか、あるいは住みやすいかを比べると、私は明らかに後者の方を選ぶ。そのモデルをフランス社会は選択した(歴史的には勝ち獲った)。これは絶対的な真理ではなく、「社会モデルの選択」なのである。そしていかに互いに批判し合い嘲り合うことの多いけんか腰の社会としても、「私たちはこの方が良い」と巨大デモの大衆は「言論の自由」擁護の側についた(私も)。

さて、この「悪魔の弁護」、納得してもらえるだろうか? 納得してもらえなくても「あーあー協調性のない可哀想な人たち」と寛容に見てもらえれば目的はかなうのだが。

1 件のコメント:

  1. 社会モデルと言う事に全く賛成です。そうだとしたら、言論の自由は自分の属する社会の統治者に向けられるのでなければ単なる冒涜と言う気もします。でもシャルリーの人達の信念には脱帽の念で一杯です。ショッキングな事件でした...。

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