2017年3月22日水曜日

サイ・トゥオンブリーの謎

この数ヶ月なかなかブログに書けない二つの悩みがある。その一つは日々新たな展開がある仏大統領選挙、もう一つはポンピドーセンターで60年の画業を振り返る回顧展が開かれているサイ・トゥオンブリー Cy Twombly (1928-2011) 。実はこの展覧会に私はかなり感動してしまって、、、。「20世紀を代表する」と評される大作家の絵に感動して悪いことは何もないのだが、何であんなグリグリと色鉛筆やクレヨンで落書きをしたような絵に感動するのかが自分で不思議。評論家のコメントなどを読み聞きしても手放しで絶賛するばかりで、ほとんど参考にならず何に感動するのか謎は深まるばかり。

作家紹介はめんどくさいので日本の雑誌の記事を引用させてもらうと


『トゥオンブリーが作家活動を始めた1950年代前半のアメリカでは、ジャクソン・ポロックに代表される抽象表現主義が美術界を席巻していた。ポロックはやがてアクションペインティングへ移行するが、抽象表現主義の傾向は、後期のマーク・ロスコのようなカラーフィールドペインティングに向かう。そんな時代背 景の中、トゥオンブリーは自らのスタイルにこだわり、手で描くという身体的所作によって、内なるエネルギーを画面にぶつけながら作品を生み出してきた。20 代の終わりに拠点をローマに移してからは、ポップアートやミニマルアートという両極端へ展開していく60年代アメリカのアートシーンとは距離を保ちつつ、 自分の道を歩み続けた。即興的に描かれる線や絵具の飛沫に、文字・数字・記号がランダムに組み合わさった作風は、まるで”描画された詩”』(ソース:Casa Brutus)


「落書き」と先に書いたが、サイ・トゥオンブリー(以後CTと略記)の絵には、わざと右利きの人が左手で書いたような、慌てて手帳にメモしたような、、、所謂ミミズが這ったような文字で走り書きされ、そして頼り気ない線がひょーっと引かれていたり、それらが拭き消されたり、絵の具で覆われたり、、、。その絵の具 もお汁のときもあればべトっとヘラでつけられていたり、手で汚されたり、、、そして全体の構成もまあないと言った方がよい。フツウの意味では全然「できた」絵ではない。そう言う意味で「従来の美学」を打ち破ったので現代美術の専門家が礼賛するのは納得できるのだが、ただのデッカイ落書きかというと、それがどっこい絵としてちゃんと見られるのだ。

彼の作品のネックは、何と行っても「文字と筆跡」だと思う。走り書きとはいえまったく読めないかと言うと、断片はしっかり解読できる。かつその文がローマ帝国時代のウェルギリウス(ウィキ)の詩の一節で、「読んだときの感動、興奮の表れである」といわれても、文学的教養のない私には何のことやら。コンプレックスに苛まれるばかり。 
私が一応読んだホメロスの「イーリアス」も連作があり、戦いの絵を見ると確かに「矢が飛び刀が火花を散らし血が流れ」という光景を思わせる子供じみた具象的な記号が散りばめられている。でも一流の文化人たちがそんなものに感動しているのかは疑問(ロラン・バルトによれば「CWの絵は筆記の暗示的フィールド」だそうで)。実際「イーリアス」を本当に読むと、英雄たちの兜とか鎧が如何に素晴らしいかという描写と神様たちの移り気の話ばかりで、私なんかうんざりして何頁も飛ばし飛ばししないではいられなかったのだが、英雄たちの盾のシリーズもあって、これは楕円形に線がグリグリグリグリ。或は英雄の名前が大きく繰り返しかかれていたり。これが古典中の古典のエッセンス、つまり私の感じた「退屈」を伝えているととも思えるのだが、この私の解釈と名だたる「知識人」たちの解釈とは勿論天と地の隔たりがあるはず。 
アキレスの戦い、へへへ

左はアキレス、右はヘクトールの楯だそうで、う〜ん、、、
その他にも彼の絵には具象的な要素も多くて、結婚直後の絵には奥さんの股ぐらが描かれているように見えて、、、2回目に行った時にその絵の前のグループの横で立ち聞きしたポンピドーセンターの解説員の話ではその絵にべったと塗られた絵の具の固まりは血かも、唾液かも、糞かも、精液かもしれない」そうで、「確かにキタナい」と私は笑ってしまったが、グループの皆さんは大真面目でそれを「情念の吐露」とする解説に聞き入っていた。どうなってるの???

と変な前衛主義と教養主義が混ざって普通なら私は「あーあ」と思うところなのだが、前述したように、何かすごいところがある。なんだろう?

エジプトの太陽神が舟で空を横断している、ハハハ
初めは作家の「信念」かと思った。というのもこの「絵とも言えない絵」を堂々と発表し続けるには自分の作品に対する並大抵の確信が要ったはずで、その自信の力強さが伝わって来るのかと、、、。
でもそれは違う。彼の作品はそうした断固としたところと同時に、もっと危うい、線や文字の曖昧さの様に、不安定さや疑問を孕んでいる。だから何度も何度も描いては消し、グリグリグリグリ、それを続ければ祈りが叶えられるというような。あるいはアポロン、アポロンと何度も上書きしているうちに神を呼び起こさせうるのではというような、繰り返しの「身体行為」の末に何かが宿ることを願うような切なさを私は感じるのだ。
信念がなければ続けられない、しかし同時に弱さ、疑問を抱きつつ、、、それがいつも切実にある芸術家のみならず、大抵の人が生きていて感じることだからこそ、私の他にも多くの人の心を打つのではないかと思う。

初期の「筆跡」から晩年には文字が亡くなり色鮮やかに「絵的」に変貌を遂げて行くが、共通するのは「身体的行為(身振り geste)。ここで読者のよりよき「一般的理解」の為に、CTを早くから評価したロラン・バルト(ウィキ)によれば、「『身体行為』とは『行為 (acte)』の付加物。『行為』は過渡的なもので、ある物、ある結果を生じさせようとするのだが、『身体行為』理由と衝動と不活動の不確定で無尽蔵な合計である。… CTは『身体行為』の仕手であり、効果を生もうとすると同時にそれを望まず、生まれた効果は必ずしも望まれた物ではない」
この離反性というか矛盾は私が見る「信念」と「疑い」と関係しているのではないかと思うのですが、どうでしょうか? 


ロラン・バルトを引用しましたが、彼は色々難しくエクリチュールとかジェスチャーとかの概念を操作して上手いこと納得させるようなことを書いていますが(source)、私は禅や老子に至る彼の解釈に賛同した訳ではありません。

現代美術評論家のピエール・レスタニー Pierre Restany (wiki) 1961年のCTのパリ最初の個展のカタログ序文に彼の画風は詩であり、記録であり、ひそかな身振りであり、性的抑圧からの気晴らし、自動筆記、自己の肯定、そして拒否でもある。そこにはシンタックスも論理もないが、存在のそよぎ、事物の奥底に至る呟きがある」書いたのですが、これは短くも結構言い当てている気がします(だからか会場のパンフレットの最初にも引用されている)。でも評論家の文章って結局文学ですよね〜。

この回顧展はごく普通に年代順に大作のシリーズが並べられいるが、やはりこのオーソドックスな方法が一番作家を理解しやすい。4月24日まで。皆さん行って私同様悩んでみて下さい。

それから素人の方が当然抱く「なんでこんな落書きが何十億円もするの?」という疑問はただただ「市場の論理」ですので、投機対象が美術作品になっているだけで本来の「美術の問題」ではありません。「現代美術は分からん」と言うよりも経済問題の一つとして研究して下さい(笑)

注:引用は私流の訳ですので悪しからず

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