前回予告のユー島で難破した日本船、その名はジンセンマル:多分「神泉丸」ではないかと思うけど、インターネットで全くひっかかってこないので確証なし)
以下、右写真のようにトランシュ岬(上のパノラマ写真の奥の冠型の岩の辺り)の近くの石に貼り付けてあった解説パネルにあったお話です:
1895年にイギリスで建造された蒸気船ムガール号(SS Mogul)は110mの長さの貨物船で、1904年に日本郵船会社に商船として買われ、ジンセン丸と新たに命名され、基地を大阪に置いた。
第一次世界大戦中、日本は米国の連盟国で、ジンセン丸は戦時協力。1918年11月9日米国から5000トンの軍事品を積んでウェールズに向かって出航。弾薬、救急車、部隊輸送用トラックを運んだ。軍事船への変換は簡単なもので、後部に105ミリのキャノン砲を備え、船員は5人のアメリカ兵で補強された。こうして1918年12月2日、15船団でウェールズからボルドーに向かい出発した。
12月3日ユー島沖で船は激しい嵐に襲われる。悪いことには機械室で故障も勃発。漂流しトランシュ岬の西のトンヌ列岩(?)で座礁。悪天候のため船での救援は不可能だったが、島民のフレデリック・ベルナールは150メートルのロープを岸からジンセン丸へ渡すことに成功、3時間に満たない間にこの巧みな方法により57名の船員が救助された。フレデリック・ベルナールと日本人船長は最後に船を後にするが、その後すぐに船は波に飲まれ沈没。 フレデリック・ベルナールはこの勇敢な行動により米国から勲章が授与される。戦後にこのような栄誉の例は68人を数えるしかなく、稀な栄誉であった。
ジンセン丸の歴史はこれで終わらない。米軍は船荷を回収しようと船を派遣。物資は港の学校の横に貯蔵されたが、それは弾薬、特に砲弾で、すべてが爆発。この事故で子供一人が失明し、記憶に残ることになる。かつ回収任務を継続した米船もジンセン丸の難破海上で爆発の犠牲になり、この新たな不幸の結果、回収計画は断念される。
船の残骸は岸から数百メートルの、海底10メートル未満のところにあり、その浅さと波のうねりがその状態に強く影響を与え、今日では完全に破壊され残存品が散らばっている。完全に口が開いたボイラー、スクリューシャフト、舵棒、スクリュー といった特徴的パーツにもかかわらず、船の規模を想像することは不可能。それとは反対に鉄板と海藻の堆積の中に砲弾や車輪が見られるのは稀ではない。
ベルナールさんがどうやってロープを渡したか、私にはもう一つ「?」、これがわかると「予告」どおり血湧き肉躍るお話になるのですが、、、。
これがパネルですのでご検討ください(私の、もちろんアプリに助けられての仏語書下ろしはこちら)
注:ユー島のサイトにpdfファイルもあるのだけど何故か微妙に違う。。。
トルコのエルトゥールル号の遭難の事件(ウィキ)はトルコ人なら誰でも知っていてトルコに親日家が多い一つの理由になっているけど、ジンセン丸のことは日本では誰も知らないから、日本で「ユー島から来ました」と言ってもシラ〜でしょう。救助された生存者数ではあまりかわらないのだけどね〜。算数するといころ52名の日本人船員が救出されたのだから日本政府からもベルナールさんに勲章が与えられるべきたっだというのがユー島を愛する日本人(少なくとも3名)の一致した意見です
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