ちょっと美味しいと言い過ぎたかな?
まあ私が「ミラベルが美味しい」と言うのと誰かが「坂田英三の作品は素晴らしい」というのは同じぐらい「ゆるぎある」真実なので、嗜好が違えばそれまでだと思うのだが、私がミラベルが好きなのは「味」だけの所為ではない。それは分かってもらっていると思うが、念を押せばその「季節感」。
季節の移ろいに心動かされるのは日本人特有とよく言われるが、勿論ヨーロッパにもこういう果物もあるし、花ではミモザとか季節柄華やかなものがある。だから同じような感覚は絶対にどこの国の人にもあると思うのだが、それが文学の規範にまでなっているのかどうかが大きな違いだろう。
前々回の井上有一の書道展の投稿で道元禅師の短歌
「春は花 夏ホトトギス 秋は月 冬雪さえて涼しかりけり」
の書を写真に挙げたが、この詩は川端康成がノーベル賞受賞講演の冒頭で引用し、日本人の季節(その自然)への感受性は欧米のそれと対峙すると主張した。こういう「花」、「月」という単なる単語だけで心が騒ぐ共通舞台があるというのは、やはり日本文化のかなり特殊なところだろう。だからこそ井上の「一字書き」も成り立つ。
でも今更ながら川端の講演「美しい日本の私」を読んで井上の書「春は花 夏は、、、」を見ると違和感が拭えなくなる。いつも夏のような文字で、あくまでも自己に対して求心的であり、月を見て人を思うというような情緒は感じられない。道元よりランボーの詩でも書いた方が相応しいかも?
実は土曜日にかなり古い翻訳のランボー全集をもらってきて、ぱっと開けた頁が有名な「十七歳…」。冒頭はよく引用される ”On n'est pas sérieux, quand on a dix-sept ans." 直訳すると「17歳の時は、真面目でない」。貰った本の訳は「十七歳、堅気でばかりはをられませぬ」とかなりふるった(古った)ものだが、その後の一節を引用させてもらうと
「六月の夜! 十七歳! 陶酔せずにはをられませぬ
血の気は謂わばシャンパン酒、頭に上がってくるのです……
そぞろ歩きをしていると。まるで小さな蟲のやうに
ぴくぴく動く接吻を、両唇に感じます ……」
そうそう、春とか初夏とか、どうもこちらの人は自然の移ろいなんてものではなく、自分の体の中で、つまり欲望(あるいはリビドー)の変化で感じるらしい。ある意味日本人より「自然児」なんですね〜。日本人、フランス人と一般化するのは良くないかもしれないが、これは私がかつて文化ショックを受けたところ。それは兎も角、井上の書はこの方に似合っている。
サイ・トゥオンブリーの描いたイーリアッドの強者の盾 |
何故か夏になるとホメロスが話題になることが多いのだが、どうも西洋文学の礎としてのホメロスを喰いものにしている作家が多いのではないかと私は怪しんでいる。
私はミラベルを食べているけれど喰いものにはしていない。純情そのものです。
引用した古風な村上菊一郎訳「小説」。そのRimbaudの"Roman"の原文は:
Nuit de juin ! Dix-sept ans ! - On se laisse griser.
La sève est du champagne et vous monte à la tête...
On divague ; on se sent aux lèvres un baiser
Qui palpite là, comme une petite bête...
古い訳も研究(あるいはコレクション)の対象になる方には、頂いた方には申し訳ないが、全集差し上げられますのでご連絡ください
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返信削除pommeさんのコメントは私のブログに書き込みが出来ないと言う不具合に関しての質問の答えです。私は「管理者」なのでよくわからない。皆さんこのアドバイスに従って見て下さい
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