2018年8月13日月曜日

深みにまさる井上有一展

A popos de la splendide exposition d'un calligraphe avant-garde Yuichi Inoue à la Maison de la Culture du Japon

会場風景
日本文化会館で開催中の井上有一の書道展、素晴らしかった。

でも我が輩が何をか言わんや? そもそも「習字」なるものが苦手で、成績優秀なる私が通知表で「2」なんてつけられたのは書道ぐらい。かつこれが授業をさぼったとかいうのでもなく、勿論前衛を見真似てとかいうのでもなく、ちゃんと手本に沿って何度も書き直した結果だから質が悪い。ちなみに隣席のA君はさっと一枚書いて私に「出しておいてくれ」と言って何処かへ消えてしまうのだがいつもはり出されていた。少なくとも授業中の努力は評価されない:つまり芸術である。ひょっとすると先生は「書道はただ字を写すのではない」ということを諭したかった?なんて言うのは私の思いすごしで、事実はただ字が下手だったということだろう。
春は花夏ホトトギス秋は月冬雪さえて涼しかりけり(道元禅師)

鳥屋(とや)に雪が降ってなかなか溶けず鳥屋に行く日待っている(?)***
では井上有一の字は上手いのか?

よく日本では何事にも「基礎がちゃんとできていて崩すのは良いが、、、」などとたしなまれるが、 井上は
「書もへったくれもあるものか。一切の断絶だ。創造という意識も絶する。メチャクチャデタラメにやっつけろ」
と極めてラディカル。

しかし一方、井上自身最晩年に「ぼくのような凡くらでも七十近くになると、一点でいいから王羲之、顔真卿、空海、大燈に匹敵する字を残したいと思うようになって、今日もまた今日もと仕事場に入るのである」* と言っているから「古典の古典」は評価していたということになる。

ネズミの穴を見ながら字を書いている 爪切った指が十本ある
だが「習字音痴」の私は恥ずかしながら私は「古典」の素晴らしさもわからない。
だから「ここは一番フランス人になりきって、絵として観てしまおう」と思ったのだが、「貧」「足」なんて書いてあって、そこから意味を剥ぎ取るのは不可能な挑戦。
フランス人なら抽象画として見て、字の意味であるタイトルを見て「ふむふむ」と思えば済むかもしれないが、これでは書の本質を誤る。なぜなら「漢字」があってこそ作品が成り立っているのだから。つまりこれは花の代わりに「花」が描かれている、つまり主題が極めて明確である「具象画」と思った方が筋が立つ。だから読めないほど変形された字はピカソ(俗に言うところの(笑))。

但し実際の花から抽出された一般的概念が「花」であると同様、「花」という漢字が形を持ち、「草冠に化ける」に分かれたりし、またおなじ「ハナ」でも「華」とは違う。「足」のようにかつ音読みと訓読みで意味が異なったり ** 、こうした何層もの概念が交錯するので複雑。日常では、それはただの伝達記号と化し、そのようなことは考えられないが、「書」はこの漢字の「深さ」を抜きには成立しない。


例えば「上」:絵画として見ると、構成およびバランス、かなり突飛なものだ。しかしそこには既に「概念」があり、記号化された文字に書家は再度「生命」を吹き込む。 西洋絵画でマレビッチが概念を抽出して「黒い四角」に至ったベクトルとまったく反対の行為をしていると言えよう。
やっぱり上と読んでしまう「上」

この書と言う特殊な表現の土俵で明らかに井上の作品は自らの魂の発露を追求をしたと思うのだが、以上のことは彼の言葉を借りると、

「書は万人の芸術である。日常使用している文字によって、誰でも芸術家たり得るに於て、書は芸術の中でも特に勝れたものである。それは丁度原始人における土器の様なものであるのだ。書程、生活の中に生かされ得る極めて 簡素な、端的な、しかも深い芸術は、世界に類があるまい」

「私が書く文字は日本の社会の中で長い間使い古され今も使われ、さらに私の手の脂がしみこんだものであるからこそ、全生命を投入して書的空間を表現することが可能なのだ」


檄文では漢文体と口語体が混ざる
今回の展覧会は有名な「花」「貧」「月」などの「一文字の書」のみでなく、私は今まで見たことのなかった、草野心平の詩、宮沢賢治の童話の抜粋、それに自らの文(奇跡的に生き残った東京大空襲の記憶から、経済社会批判、あるいはユーモラスな語り口の人生回想)を毛筆のみならずコンテ書きしたものも多く展示されており、それらも同じく素晴らしい。消したり塗りつぶしたり、アール・ブリュット(参考)の作品のようなところもあるが、書かれている文章が意図的に選ばれコミュニケーション可能なところがアール・ブリュットとは全く違う。共通点はタッチがブリュット(=生:ナマ)なところのみ。

よだかの星
以上ごたくを並べたが、結局何故素晴らしいかは??? 強いて言えば前引用文の『全生命の投入』具合だろうが、誰かがデタラメに書いたものを横に並べられて「鑑定」できる自信は私にはない。

近年日本の書道家が個展会場で大きな字を書くことをパーフォーマンスとするのに何度もお目にかかったが、それぞれ作家さんは非常にかっこ良くそれをこなしていた。書もダイナミックだったし、「前衛の古典」である井上の業績をふまえてのことだろうので門外漢の私には文句の言い様がないが、それがすぐ展示されると「そんなものかなー」とのその都度不思議に思った。先のA君と私の差と言えばそれまでだが、 私の場合、大昔にバルセロナで「あぶり出しドローイング」の個展をした折、オープニングのパーフォーマンスとして描いた大作は駄作だったので、あぶりついでにそのまま焼き切った(実は初めから成功する筈もないと思っていたからそのつもりだった)****。映画編集・監督のヤン・ドゥデさんが制作過程をビデオで撮ってくれた時の小品は珍しく見事に成功して、ホッ。本当に冷や汗たらたらだったけど、ただ心臓が弱いだけかな〜?

何れにせよ「全生命を投入する」とは、言うも行うも難し …
 
これが本日のたわいもない結論。


「井上有一 1916 - 85 書の解放」展 
9月15日まで:日本文化会館の展覧会ページ(日本語)

展示も特に「現代アート」風にせず、あっさりしていて良かったと思う。 


注記:

井上有一の略歴等の詳しいページの参考リンク(日本語)

* この文は「しかし今日よりも明日、明日よりも明後日と向上する約束などはどこにもない。長生きすりゃ、そのうちいい字が書けるだろうというようなうまい具合にいくとは誰も保証しない」と続く

**  会場で「足」という字は本当に走っているみたいだなと思って見た後、解説(翻訳)を見るとde suffireと書いてある。確かに「足りる」だけれど私は違和感を感じた。勿論漢字の語源論を調べればこの二つの意味は関係を成すのだろうが、日常では音訓で違う全く違うものを意味してしまう。かくなるごとく漢字の概念というのは考えると想像を超えて多義的。この「足」に関しては井上が「足る」と読ませてそうで、彼は私が面白いと思う多義性を文字通り足切りしている。事物ではなく心象ということか?

*** フランス語の翻訳を助けに解読



自らの死を視野に入れて、、、


**** 1992年! あの頃は面白かったな〜。でもあともう一踏ん張りしなきゃね(笑) 
あぶり出しドローイングに関してはこちらのアーカイヴページへ 五十肩で挫折中ですが今夏は「海水ドローイング」と「あぶり出し」をくっつける試行錯誤もし出しました(作品例)

井上の展覧会は「ジャポニズム2018」の一環として行われており、凱旋門からほど遠くないロスチルド館での「深みへ‐日本の美意識を求めて‐」展とカップリングされている(一枚の入場券で二つの展覧会が見られる) 。 こちらは「歴史を超え、空間を超え」といえば聞こえが良いが、展示自体は玉虫色、それに似たものどうしを並べてみる趣向、私には「深み」が全く感じられなかった。でも展示作品は若冲をはじめ、なかなか目に出来ないものが幾つも来ているので、こちらも是非どうぞ。(8月21日まで)

 「東洋趣味の抽象」(本人は否定しているが)で井上と同年代ってことで比較できないこともない、ザオ・ウーキー(1920年中国生 - 2013没)の回顧展が近代美術館でやっている。好きな作家ではないが今回の展覧会は質の良い大作がゆったりと並んでいる。点数も回顧展にしては少なくてよい。(1月14日まで)

日本文化会館、近代美術館、それから先日紹介したギメ美術館のキム・チョンハクロスチルド館の「深み」、この4カ所まあまあ近いので、頑張りたい人は全部廻れるかも(笑)。

しかし今日の投稿は無茶苦茶時間がかかった! 写真と引用でごまかしたつもりだったのにどうしたことか???
 
これなしではパリでは話にならない:「アムール」(笑)


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