2022年5月11日水曜日

キーファーとウクライナ

Subject : Anslem Kiefer at Thaddaeus Ropac Gallery in Pantin 

アンゼルム・キーファー Anslem Kiefer(ウィキ)は最近の私にとって「また無茶苦茶しやがって!」と頭にくる=つまり刺激的に羨ましくさせられる数少ない作家だ。また新しい個展がパリ郊外のThaddaeus Ropac画廊で開催中なので遠征(地下鉄降りて徒歩15分だけど殺伐としたところを歩くので)。

 
「今回は小品集」と言うのは冗談。臨時グランパレでのとてつもなく大きい作品(参考投稿)を見せられた後には広々としたRopac画廊のスペースの作品も結構こじんまりした感じがしてしまう。といってもキーファーの作品はご覧の通り大きい(笑)
 
 
暗い闇の中から出てくるような作品が多かった臨時グランパレに比べて、今回はバラエティーがあって、カラーもいつもとちょっと異なる:ゴッホのアイリスを思わせるよう黄と青、詩に歌われる川の水のブルー、あるいは凍てついた冬の白が基調の作品とか。
 


 



でも相変わらずなんだかよく分からんことが多い → 今回もスターリン批判で収容所行きになった、名前だけは知っているマンデリシュターム(ウィキ)を除くと前回の Paul Celan 同様 Ingeborg Bachmann, August Graf von Platenと聞いたことはもない詩人へのオマージュ作品で(困)。
 
白い絵の一枚は下に「(…) ウクライナ」と書かれて終わっている。これは新たにキーファーが最近書き入れたものではなく、Paul Celan の詩だと言うことで、ググっていたら「冬」という詩に行き当たった。原文はドイツ語、英訳されたもの(ソース)をDeepLの自動翻訳にかけたら意外にちゃんとしている感じなのでほぼそのままで引用。理解の手助けに。ナチスを生んだドイツ人としての重荷を背負い続けるキーファーの嘆きと微かな希望が悲しいかな「今のもの」となってしまった。
 

降ってきたよ、お母さん、ウクライナに雪が降る。
救いの主の冠...千の悲しみの粒
ここで私の涙は全く虚しくにあなたに手を伸ばす。
一人の誇らしげな無言の視線が、私の救いのすべてだ ...
私たちは今、死につつある。なぜ眠らないのだ、小屋よ。
この風さえも、おびえたぼろを着て、のたうちまわる。
この人たちは、滓の詰まった轍で凍えているのか。
その腕は燭台、その心は旗なのか?
私は寂れた暗闇の中で変わらずにいた。
日々は優しく癒してくれるのか、それとも鋭く切り裂くのか。
私の星々の間には、今や軋んだ音の狂ったハープの
引き裂かれた弦が漂っている。
その上で、時折、バラに満ちた時間が調律される。
一度期限が切れ、一度だけ、そしてもう一度......
何が来るのか、母よ、目覚めなのか、傷なのか
もし私がウクライナの雪に沈んだら? 
 

(注:ルーマニアのユダヤ人のCelanの家族はウクライナ国境地区の収容所に入れられ、そこで父は病死、母は銃殺された)
 
 
5月24日まで:Ropac画廊の案内ページ 
 

私のキーファー展過去投稿 

21年12月 臨時グラン・パレ

15年 国立図書館での彼の「本」

 

最後に細部。ベトボトです
 

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