2022年1月29日土曜日

ちょっと変わったピカソ展

Sujet principal : Exposition "Picasso l'étranger" au Musée de l'Imigration

今度はバゼリッツかなという予定が、前回のドラ・マールの恋人で、前々回投稿の仏共産党の党員にもなったピカソへ!

開かれているのはパリの東ヴァンセンヌの森の入り口の「移民博物館」*。だからただのピカソ展ではない。冒頭のプレゼは次の通り:

これがピカソの警察書類で40年間で150万件の調査に及ぶ量になる
「彼がフランス人になることはなかったということを知る人は少ない。1940年4月3日帰化を申請したが拒否され、新たに申請することはなかった。

実は1901年に早くも、ピカソは「監視下の無政府主義者」として警察に登録され、40年間、彼は外国人、左翼、前衛芸術家として疑惑の目で見られることになる。1949年まで彼の作品はアメリカなどでは賞賛されていたが、フランスのコレクションにはわずか2点しかなかった。しかし、彼は独特の政治感覚により、旧態依然の制度のフランスを巧みに渡り、芸術より工芸、首都より地方を選び、南仏に居を構えた。

彼の裏にあった不安定な生活、彼の生涯の障害を発見することは、私たちの国(フランス)そして我々自身の見たくない側面を映し出すのではないだろうか?」

 

そして第一章はピカソのフランス到着(以下も説明パネルから大幅引用)

1900年:1回目の旅行-万国博覧会

19歳にならんとしたピカソは友人のカサジェマス(Carles Casagemas)の案内で、ピカソはパリのカタロニア人のコミュニティーの一員となった。動く歩道、電灯、最初の地下鉄など、超近代的な大都市に魅了され、美術館や画廊を熱心に探索した。

1901年:第2回旅行-ヴォラール画廊展

ヴォラール画廊での展覧会を企画したマニャック(Pere Mañach)の招きでバルセロナから再来したピカソは、クリシー大通りのマニャック邸に滞在することになる。 彼はここで記録的な速さで、64点の作品を1ヶ月半の間に制作。激しい色彩から人物が浮かび上がるその絵は美術評論家のコキオに絶賛された。

と快調な出だしに見えるが、

その直後、ルキエ警視は、コキオの賞賛の文章を引用しながらも、モンマルトルの情報提供者の言を取り入れ、ピカソの絵のテーマを証拠として「ピカソは彼をかくまう同胞の思想に共感した」との最初の警察書類を作成、その結果、彼はアナキストとみなされることになり、それ以来40年間ピカソは、警察にその烙印を押されることになった。(警察に一度目をつけられると、、、「ああ無情」です)

しかし警視も歴史上に名前が残ってしまって大変だ(笑)

1902〜03年の3度目の滞在は放浪生活。この時期詩人のマックス・ジャコブと出会う。

1904年には「洗濯船」に居を構え、05年アポリネールと出会う。 

1906年はGosol **というピレネーのロバに乗って18キロの警察も絶対来ないという山村で2ヶ月間過ごしたが、この間にカタロニア・プリミティブ(中世宗教美術)に出会い、キュービズムへの道が開かれることになる。

これはGosol滞在時の素朴なスケッチ
 

とこの調子で書いていたらピカソの伝記なってしまいそうなので、ぱっと飛ばし時は1940年:

4月3日、ピカソはフランス帰化の申請をする。上院議員ポール・カトリや高級官僚アンリ・ロージェの強力にサポートがあり、警視部長の好意的な意見もあって、内閣も特別な配慮をしたこの請求は短期間で処理された。

その頃ピカソが、おそらくパリの外国人排斥的空気を避けて住んでいた大西洋岸のロワイヤン Royan。私も馴染みが少しあるがこのように華やかな感じはする。こんな明るい絵を描いたピカソですが、、、

ピカソには旅行の度にこういう警察発行の移動許可書が必要だった

現在はポンピドーセンターにあるコラージュ作品の「ミノトール」(28年作。多分私はピカソの中で一番好きかも)からサポーターである上院議員の夫人だったマリー・カトリは35年にオブッソン織のタペストリーを作らせ、アメリカ市場で大評判となった。
 

しかし審査結果(5月25日)は1901年の報告書の主張の一部を繰り返し、「この外国人は帰化する資格がない」、「国家的観点から非常に疑わしいと考えられる」とした。

説明パネルは「4月3日から5月25日に何があったのだろう?」と書くのみで終えているのだが、まさに第二次大戦勃発時、月日をウィキペディアで確かめて書くと:

ナチスドイツがポーランドに侵入をしたのが1939年9月でフランスはドイツに宣戦布告。40年の5月にドイツはフランスに侵攻。6月にはドイツ軍がパリに無血入城、講和条約でペタン内閣が誕生。

そんな時期である。かつその前にピカソは反フランコ反ナチの壁画ゲルニカを制作(37年)、そうでなくても洗濯船の時代からのコレクターのカーンワイラーもスタイン兄妹もこの時代嫌悪の目で見られていたユダヤ系で、彼の作品はナチスが「退廃芸術」とした代表例。国籍取得滑り込みセーフを狙ったとしても楽観的すぎたとしか私には思えないが、、、。

 

また飛んで1944年、6月に連合軍がノルマンディー上陸、8月にパリ解放。その10月に先に書いたように仏共産党の党員となり、平和の鳩のポスターも描いた。

戦後はご存知のように世界に知られる「天才ピカソ 」となり、フランス国籍など頼めばすぐに下りたはずだが、それをしなかったのはなぜだろう?戦時中は仏国籍があるということが身の安全の保障になり得たが、今更? スペイン(カタロニア)人としての自覚の方が強かった?  そう思うとシトロエンの自動車「ピカソ」なんてのは変なネーミングだなあ。

そんなこともひょっとしたら展覧会の最後のあたりにあったのかもしれないが、余りの盛り沢山の内容を見切れないうちに閉館時間となり、戦後編は見られませんでした:大した内容は残ってないと思うけど(笑)

ご存知ドラ・マールがモデルの「泣く女」。ゲルニカ制作当時の恋人かつ協力者でした。「泣く女」も沢山あるけどこれはなかなか秀作でないでしょうか

来年5月フランスの大統領選挙があるのですが、反外国人をあからさまに主張するような候補が何人もいて、かつ歴史を無視した嘘をついても人気があるという「おフランスどうしたの?」と泣くような状況がありまして、、、それもあってこれは一層素晴らしい展覧会なのです。
 
「異邦人ピカソ」展 2月13日まで >移民博物館サイト


注 

* ヴァンセンヌの森では1931年に植民地博が開催された。アフリカ、インドネシアなどの仏領植民地を一周するという趣向で、今ある動物園もこれに由来する。その博覧会のメインビル「植民地パレス」は、今の13区のアトリエに来る前に10年以上近くで暮らしていたので思い出深い場所。その頃は「アフリカ・オセアニア美術館」でよく行った)
 
** ググってみたらピレネー山地のスペイン側。私は1990年前後バルセロナに屡々行っていて、ピレネー山中のベルガ Bergaという町の Patumという「悪魔祭?」に連れて行ってもらったことがあるのだが、地図を見るとそこから遠くなかった。車で真っ暗な山をずーっと走り続けた末に村が忽然と現れて「別世界」に入ったような気がしたのを覚えている。絵画史に革命をもたらしたピカソのインスピレーションと比べる気はないが、私は火の粉が飛び交う過激な祭りに影響されて連作を作った。昨年秋にウダンの地下に展示した昔のフィエスタシリーズ(1991年)がそれ:いつもの我田引水的自己宣伝です(笑)
 
去年まで展示される機会のなかった91年のフィエスタシリーズ。やっぱりこれではピカソには負け負け


探したら「悪魔祭」のプリント写真が出てきた。他にもいろいろあるのでまた次回にでも:そもそもなぜ私が悪魔になっているか不思議でしょ?
 
 
 
悪魔にしてもらえて興奮した昔日のエイゾウ
悪魔は火の粉を散らす。これ多分私です
 
 

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