2026年7月31日金曜日

私が夜な夜な京マチコにうなされるわけ(笑)

私の太秦のマンションはかつての大映の京都映画撮影所の跡地に建っているというのが一つの自慢(?😅)だが(24年の過去投稿)、今日fbを見ていたらそれこそ羅生門のセットの建築中の写真があった。それがコレ:
 
 
そして下は私のアパートのバルコニーから北西方向を眺めた写真だが、この左側の穏やかな山並みは先の写真のセット建築中の裏側の山並みだ! 「私の建物は映画撮影所の跡地にあるのではないか?」というのは友人Fさんがメールで私に投げかけた疑問だったのだが、彼はこの写真を知っていたのかも???(最近音沙汰ないけど元気かな???) 
 
注:中央右の高い山は愛宕山 
 

セットの工事の写真が載っていた記事は「羅生門」の製作からヴェニスの金獅子翔受賞前後の状況のエピソードが書かれてあり面白いのだが、どうやってリンクすればわからない。先の白黒写真のリンクは

https://www.facebook.com/photo?fbid=1565175435077859&set=pcb.4396140660647346

で、続いてセットが建ってくる様子の写真があるが、大映の社長はベネチア映画祭に出品には全く興味がなかった等々のエピソードにはどうやって辿るつけるのか? 掲載者の「三品Mishinaゆきひろ」をクリックするしかないか?

撮っているはずのマンション入り口付近にある石碑の写真も出てこないし、今日はごく簡単ですが諸種の事情によりこれにて「終」 (7月も猛暑とW杯であっという間に終わったし😅) 

2026年7月21日火曜日

ゆめうつつ 夜毎に描く地図(寝小便の話ではありません)

ご存知かどうかしれないが、私は以前(95年から2010年あたり)よく田舎のアーティスト・レジデンスに行っていた(田舎の畑や山やらで自然素材を使ったインスタレーションをしていた)。私は車を運転しないのでその周りをともかく歩き回る。今のようにいつでもGPSで位置が確認できる時代ではなかったので見える風景とランドマーク(廃屋とか大木とか)をもとに頭の中で地図を描き動き周り、2週間もすれば普通の村の住人よりはいつも地形をよく知るようになっていたと思う。一応土地勘・方向感覚があると自負している。そのくせ夢の中ではやっぱりそんなふうに歩き回っては、、、いつも道に迷うのだ! 

「この怪しいバラック街を通り抜けて左に折れてしばらく行くと畑の中に唐突なビルが建っているはずなのだが」と見渡しても見えなくて戻ってバラックで仕事していた青年に聞くと「あれは1年前取り壊された」とか。「この民家の庭を突っ切った後の建物にはいると地下道があってこれがずーっと向こうまで行く近道」とか。つまり夢で見る土地は何度も行ったかなり馴染みの場所なわけ。そしてそれがレジデンスに帰ろうとかしているのことが多くて、ひょっとして本当に行ったところと関係あるのだろうか、あるいは子供の頃遊んだ野原とかとは? と夢の地図を描いてみて現実に行った場所を比較検討し始めたのだが、現実も四半世紀も経ってしまうとその記憶はかなりあやうく「あれはレジデンスの時の想い出と思っていたのが実際はただの夢の中だったのか???」とまことにおぼつかないことになってきた。

うつつの世界でもヴェニスに行くようになってから「方向感覚がある」という私の自負は木っ端微塵に粉砕されたが、その所為の「よろめき」か、日本の私の新拠点の京都の太秦も小ベニス (笑)、洛中の碁盤の目とは大違いで運河や用水路に沿って道が湾曲し、「自負」のせいで知らない道を選んではもう自宅の間近なはずなのにGoogle マップを見ても堂々巡りをすることしばしば。そして日本に何ヶ月か戻っていた後パリに戻っきて自転車に乗ったりすると街の真ん中で「何でこんなところで間違えるの!?」ということが起こり頭の中は完全にブラックアウト!←ヴェリブは30分間という制限時間もあるからそのストレスがあったりするともうあかんです。私どうなっちゃうんでしょうか?

ともかく日は東から昇り西に沈む、それだけが夢でも現でも唯一の頼り。

ところでどんなことがあろうと道に迷わず行けるご近所のフランス新国立図書館で先日まで「想像の地図 CARTES IMAGINAIRES」という展覧会が催されていた。地図を描くことは、知っている場所と知らない場所の境界を引く。昔の地図では未知の世界には色々な怪獣がわんさかと暮らしていて、それが地図上にも描かれている。そんな楽しくもある世界だったが、大航海、探検探索が続くにつれ怪獣たちは追い払われ、未知の場所は既知の場所の間のただの白い空間、情報で埋められることを待つただの空きのスペースとなってしまう。これで第一章の終わり。第二章は語りつがりや古代の書の叙述を元にした伝説の地の地図。第三章では文学での地図。空想の文学でその世界を構築するのに作家には地図を描いて確かめる方が便利らしく、宝島やロビンソン・クルーソーのみならず、プルーストも自分の空想を織り混ゼるノルマンディ、その地理を誤らないように原稿に鉄道路を書いていた(ここまでくると描くと言うより書くだろう)。その後の章は省略(笑)

それにしても私の夢の世界の地図は一筋縄ではいかなく思われる。知っている世界と知らない世界が曖昧で穴だらけと言おうか、ゼロから1の線の間にも有理数より無理数の方が多いが如く無限の穴のスポンジ構造をしているのだ。というわけで地図は描けても境界はあってなし。

猛暑のせいか(ただそのせいだといいのだが)先週は眠くて眠くて、、、そして夢の中を彷徨うと歩きすぎて足がつって目が覚めること屡々で。これを普通の人にいうと「ちゃんと水飲みなさい」で終わりだけど。

 

1595年にアントワープで出版された出版の世界初の私もいつか行ってみたいアイスランドの地図。

まあまあ普通になってきたけどまだまだ変な怪獣(海獣)がいます。右上の流氷も芸が細かい!

 

これは解説不要でしょう。さすが国立図書館いろいろなもの持ってます
 

プルースト、迷子にならずバルベックに戻らねば(笑)
 
キミはタコを見たか? 1900年の漫画地政学図

「道化(狂人)の頭の中の世界」(16世紀後半) 地図は人間の情熱の鏡であり瞑想の助けだと解説にありましたが。

しかし世界地図見るとなぜか日本を探してしまいますねー

 

展覧会の写真はいつもながら隣人アーティストのカリム君が綺麗な写真をfbに沢山出しているのでそれを参考にしてください😄


2026年7月5日日曜日

アートもスポーツも全ては政治に関わる!

今年のヴェニスビエンナーレは「マイナー・コード」というテーマで聞こえぬ声を汲み上げようとしたチーフ・キューレーター故コヨ・クオの意図に反して開幕早々政治的な大きな声が圧倒する結果になった。それはやはりビエンナーレが国を代表したパビリオンを持っているということに起因している。スポーツや音楽でも国の代表となると国のプロパガンダの一環になりかねないが、現代アートは政治社会的問題はそのテーマであること多々であり、独裁的政権下でプロパガンダとして使われた歴史を持つアートにおいてアーティストは常に虐げられる側の表現であろうとし、決して政治とは関係ないとは表明できない。

まあ普通の情報ソースに信をおく人ならロシアはウクライナに侵略戦争を行い、イスラエルはガザで虐殺を続けると考え、そのパビリオンにはブーミングしたくなるだろう。

私としては、いくらちゃんと機能していないとはいえ国際法を国家が守る国連体制は実際の制裁機能がないとしても、それゆえになおさら人民を治める国家としては法治体制の見本を示す意味でも当然のことだと思うので、その意味ではアメリカもブーミングするのが当然だと思っている。

でもこんな優等生的な解釈は本来的にアートとは相反するのかもしれない。基本的には「現代アート」は一般的規範への逸脱行為をモットーとしているからだ。そういう意味ではちゃぶだいをひっくり返し続けるトランプは大アーティスト、アメリカパビリオンに彼が出てきたら面白かったかもだが彼はアートなんて興味ないから、、、まあ冗談はさておき「規範からの逸脱」といっても「人間の生命・生活を尊重する」というのは規範を超えた一般合意のはずなのだ。

アートは世界と隔離されないという証左でもあろうが、「現代アート」の世界では女性差別、植民地主義、LGBTの権利とか社会・歴史・環境問題を扱うことが定番になってしまった感もある。イメージ、表現モードで観衆をギョエーと仰天させても、主旨は正しく、私にはそれは結局「良い子」になっているかの疑問に感じないではない。例えば環境問題に対して警鐘を鳴らすとスキャンダルなアート行為がおこなわれてもそんなこと誰でもわかってるのだから私は地道に産業資本の横暴ぶりや政府の欺瞞を具体的に告発する環境保護団体に耳を傾け支持した方が良いと確信している。まあ現代アートファンはアートの形をとらないと物が見えない人たち(例えば天井に四角い穴が開いて初めて青空や雲の流れを楽しめる人たち)だからその人たちへの警鐘になるかもしれないが。

ともかく国際的規範の国際法を守る世界をよしとする私はアメリカなんぞもにビエンナーレに参加する権利なし!
だからアメリカで主催される巨大主義の反エコロのワールドカップなぞ絶対にボイコット! 
 
の心意気だったのだが、夜でサッカー中継してるとついついつられてみてしまうのは不甲斐ないと言おうか根性なしといおうか、昔のサッカー少年の致し方ないところ(弁明:私の世代は1968年メキシコオリンピックで釜石というその頃のレベルでは秀でたアタッカーがいて三位銅メダルになったという「事件」があって野球一辺倒だった子供のスポーツ志向に影響を与えた)。しかしなぜサッカーがそんなに面白いか? だらだらたらと90分も見てしまうのか?  私の思うところ、得点がはいりにくく、ちょっと見ていないうちに点数が入ってしまって「その時」を見ないと後悔 * が残る?! 録画見て納得というわけにはいかないのだ。そしてゲーム展開の予想はあっても結局その通りには行かない。これがスポーツがいわゆる「シナリオのある芸術」と違うところ。私は何につけてても薄情な人間なのでゲームの大勢が決まっているとどうでも良くなって最後まで見ないのだがW杯は接戦多いから、、、というわけ私はほぼ毎晩の如くサッカーの「罠」にはまっているのだ。なさけなや〜
 
しかしそれ以上に、、、告白しますと:W杯より不甲斐ないことに私はビエンナーレの一般公開前での「駆け足メイン会場巡り」(参考投稿)で実はアメリカ館にもロシア館にも入ってしまったのだ! アメリカ館 ** は建物の前を通った時に作品が気になった:彫刻家アルマ・アレンの個展で純粋に造形性が追求されていて私のような現代アートの落ちこぼれにはこういう作品は嬉しい。それに対しロシアは何をしでかすかの興味本位:厳重な警備のパビリオンの中は花が飾られ合唱団が歌を歌っていてドリンクサービスもという「えせユートピア」でプロパガンダなのか、すごい皮肉なのか??? こうして両方楽しめ、またまたなさけなや〜。
 
この反骨精神を全く貫けない私が周りの人にいくら推薦されても最近行く気がしないのがルイ・ヴィトン財団。2014年の開館時にフランク・ゲーリーの建築に感動してこのブログでも数回にわたり取り上げたが(ブーローニュの森の一等地に建設されることになる不思議な経緯も含め)、LVMHグループ所有者ベルナール・アルノーはトランプとは就任式に家族で招かれるほどの仲で、最近耳を疑うほどのイデオロギー的な発言をするので私はまだ矜持を保ちブーミング中(一庶民としてわずかにできることなので)
 
フランスでよく言われ、日本では全く耳にすることない言葉に「tout est politique : すべては政治に関わる」というのがあるが、アートもスポーツも政治と関わらないものはないのです。

ところで「規範からの逸脱」なぞと難しいことを言わなくても一般的に芸術家は自由な生き方をする=規則を守らないと解釈される風潮があるらしく、「我がアトリエ正面のゴミ捨て場が臭いし捨て方がむちゃくちゃだ」と文句を言って張り紙をしたアパートのガーデイアンにその後状況が良くなったか尋ねてみたら、よっぽどご機嫌斜めだったのか「あんたの側はアーティストたちが住んでいるから、、、」なんてどう見ても偏見としか思えない意見が飛び出してきてびっくり。「私はちゃんと捨ててるよ」と言ったら「あんたのことじゃない」と → 私はアーティストじゃないのか〜😅

 

この投稿の写真には腐心しました(笑)アメリカ館もロシア館のコーラスも撮っているのだけど日本語読めない人に大きな誤解を与えかねないし。で、写真は我が団地に住むお兄さんのTシャツ、ハンバーガー店で働いていて仕事着らしいが、バーガー好き(といわれる)トランプにはいいメッセージじゃないでしょうか。 フランスではハンバーガー作りも政治に関わる???(笑)

 

注

* 5月16日の投稿でビエンナーレでの後悔を書いたが、ここでの「後悔」も言葉としては強すぎるような。私の日本語ボキャブラリーが貧弱なせいか?フランス語だと〜し損なったという意味に繋がるmanquer、英語のmissを使うのがいいのかな?と今更ながら考えましたがどうでしょうね? 

** アメリカ館に関して:「これがアメリカの最善か」https://artnewsjapan.com/article/70028
(アートに関して「最善」とかいうのは意味ないと思いますが)