
ポリアコフの展示が奇麗だったと褒めたが、この展覧会も 最近よく言われる「展覧会のコレグラフィー(振り付け)」が成功していた。というか元々シュールレアリスト達が昔企画した展覧会は今で言うインスタレーションが一杯の「振り付け」付き展示だったので、はじめからそれに馴染んでいるのだと思う。


私は普通「ただ美しくみせるだけのわざとらしい照明」のお仕着せの見せ方しかしない「振り付け展示」(パリのケ・ブランリ美術館はその典型)は大嫌いなのだが、36年展の復元はオブジェが博物館的に大きなガラスケースに入り、久々に原住民の彫刻やマスクの背中側とかがしっかり見えてとても満足。
シュールレアリストの作品でも、例えばマグリットのベル型ガラス容器に入ったチーズの絵は後ろに回るとキャンバスの裏に「これはチーズではない」と書かれているのがわかるという具合。
見終わって思ったのは、超有名な作品、メレット・オッペンハイムの「鶏の丸焼き」に似たハイヒールとか、ポスターを見ている限り今ですら新鮮に感じていたのだが、本物を見たときのインパクトが(私には)随分低かった。やはり組み合わせの意外性がキーとなる作品はイメージの洪水の中で鈍化してしまう。シュールレアリストの歴史的影響として「エロス」をずーっと暴力的に表現する現代作家の作品が飾られていたが、30年代にはシュールレアリストの作品は同様な暴力性があったということなのだろうか? 人間何にでもすぐ慣れてしまう。だからそれだけの作品はすぐに陳腐化する。まあそれも美術史でしょうか?

それから2/1に書いた ブルトンと良い中だったらしいヴィクトル・ユーゴのひ孫、ヴァレンチーヌの代表作はこの手袋らしい(本物はなくてその写真が展示されていた)
昨日もやる気がしなかったものの、眼鏡忘れてブレッソンの写真はないだろうと「展覧会の梯子」はしなかった。
ポンピドーのサイトのビデオでかなり雰囲気が見られますのでご参考に(何故セックス・ピストルズが音楽なのかこれまた疑問ですが)
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